8月も末になってからアポイント通りに昭和大学病院を訪れた。
患者であるオヤジとオフクロは仙台にいる。
東京行きなのに単休しかくれない阿呆な職場に閉口しつつ
強引な行程で日帰り東京往復に踏み切ったのである。
セカンドオピニオン自体は、転院を旨とするものではなく
あくまで、第三者としての、専門的見解を貰うという性格のものである。
東北大学病院の治療方針に甚だ疑問が生じていた俺なので
それを含めて昭和大の村上ドクターの意見を聞いた。
話の流れで、もし、先生だったら、手術しますか?的なことを聞いた気がする。
氏は、しますね、と言ったように思う。
現在加療が進んでいますが、先生だったら切れますか?
俺は自分自身の核心である質問をぶつけた。
切れますね、と氏は答えたと思う。
この辺の記憶が曖昧なのは
ドクターの揺ぎ無い自信の言葉を聞いて
俺が震え上がってしまったからである…
ある種、人を得た、的な感動である。
ここへ来て、助かったかもしれぬ、という安堵であったかもしれない。
ただ、本来は昭和大でも、化学療法を施して、その後手術、のやり方も取っているが
いかんせん、東北大での治療が進み過ぎていた。
60グレイの放射線照射まで、後10日程で到達してしまう
せいぜい40グレイ照射程度に留めておきたかったが
時間の都合上いたしかたなかった。
セカンドオピニオンの段階で40グレイに到達していたからである。
放射線を当てた部分は硬くなってしまうのであるそうだ。
硬くなると、縫合やらに支障が出るとのことである。
30~40グレイ程度だと、30日程おいて、手術にいけるのだそうだが
60もかかると、1月半~2月くらいは間隔を開けなければならない。
結局は、東北大の治療を完遂し、45日~60日の間隔をとり
手術、という方針に固まった。
かくして、9月半ばには一度東北大を退院し
しばらくは自宅療養、10月末に、検査入院
11月5日手術決行と段取りが決定した。
セカンドオピニオンから、退院までのおよそ3週間に
患者本人、及び付き添い、要するに両親なのだが
に、相談の結果報告、手術の提案
親戚への説明、それに伴う資料製作など
やっておく事は色々あった。
自分自身の生活にも、多種多様な問題を抱え
あれもこれもになったらパンクしてしまうだろう故
一番お座成りにしたのは…仕事であったのは事実である。
患者であるオヤジとオフクロは仙台にいる。
東京行きなのに単休しかくれない阿呆な職場に閉口しつつ
強引な行程で日帰り東京往復に踏み切ったのである。
セカンドオピニオン自体は、転院を旨とするものではなく
あくまで、第三者としての、専門的見解を貰うという性格のものである。
東北大学病院の治療方針に甚だ疑問が生じていた俺なので
それを含めて昭和大の村上ドクターの意見を聞いた。
話の流れで、もし、先生だったら、手術しますか?的なことを聞いた気がする。
氏は、しますね、と言ったように思う。
現在加療が進んでいますが、先生だったら切れますか?
俺は自分自身の核心である質問をぶつけた。
切れますね、と氏は答えたと思う。
この辺の記憶が曖昧なのは
ドクターの揺ぎ無い自信の言葉を聞いて
俺が震え上がってしまったからである…
ある種、人を得た、的な感動である。
ここへ来て、助かったかもしれぬ、という安堵であったかもしれない。
ただ、本来は昭和大でも、化学療法を施して、その後手術、のやり方も取っているが
いかんせん、東北大での治療が進み過ぎていた。
60グレイの放射線照射まで、後10日程で到達してしまう
せいぜい40グレイ照射程度に留めておきたかったが
時間の都合上いたしかたなかった。
セカンドオピニオンの段階で40グレイに到達していたからである。
放射線を当てた部分は硬くなってしまうのであるそうだ。
硬くなると、縫合やらに支障が出るとのことである。
30~40グレイ程度だと、30日程おいて、手術にいけるのだそうだが
60もかかると、1月半~2月くらいは間隔を開けなければならない。
結局は、東北大の治療を完遂し、45日~60日の間隔をとり
手術、という方針に固まった。
かくして、9月半ばには一度東北大を退院し
しばらくは自宅療養、10月末に、検査入院
11月5日手術決行と段取りが決定した。
セカンドオピニオンから、退院までのおよそ3週間に
患者本人、及び付き添い、要するに両親なのだが
に、相談の結果報告、手術の提案
親戚への説明、それに伴う資料製作など
やっておく事は色々あった。
自分自身の生活にも、多種多様な問題を抱え
あれもこれもになったらパンクしてしまうだろう故
一番お座成りにしたのは…仕事であったのは事実である。