◆大下英治『ハマの帝王。藤木幸夫、横浜をつくった男』を読み解く
★要旨
・藤木幸太郎は、紹介された鶴岡組でひと月働いた後、横浜の本間組へ移った。
芝浦港の荷役をしていたのが、鶴岡組だった。
・みじめなドヤ暮しの幸太郎は、
本間組の人夫となったが、乙種の鑑札だったので、
周辺の木賃宿へ泊まらなければならなかった。
・幸太郎は、三吉町の立ン棒の生活ぶりや、同じ仲間の乙種人夫の不安定な一日一日を見るにつけ、考えていた。
「なんとか早く、甲種人夫の常用にならなければ」
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そのためには、部屋頭の目に留まるような、目覚ましい仕事ぶりを見せることだと思っていた。
・藤木幸夫の父、藤木幸太郎は、河野一郎と親しかった。
・藤木と河野一郎の仲立ちをしたのは、
小此木歌治だった。・小此木は、代々、材木商で、横浜の末吉町に「小此木木材商店」を経営していた。
・幸太郎は、仕事がなく人夫に支払う賃金の工面がどうにもつかないとき、
金港倉庫に小此木を訪ねたことがある。
このとき、黙って調達してくれたのも、小此木だった。
・藤木はこの徳を終生忘れず、
「おれの最大の恩人は、酒井親分と小此木の大将だ」と言っていた。
・1960年、藤木幸夫の海外港湾視察が、始まった。
ロンドン、ロッテルダム、コペンハーゲンなど。
・幸夫が勉強になったのは、ロンドンの荷役会社のスクラットン社長だった。
・張り切って大学ノートに膨大な質問事項を書いて準備してきた幸夫は、挨拶を済ませた後、
白髪の老人、スクラットン社長に願い出た。
「船会社との料金交渉や労働組合との折衝など、
質問したいことがいっぱいあります。
それぞれのご担当の方をお願いできないでしょうか」
すると、スクラットン社長は、憤慨した。
「ミスター藤木、きみはずいぶん失礼なことを言うな。
担当を呼んでほしいとは何だ!わたしはこの会社の社長だよ。
すべてわかっている。わたしに訊きなさい」
幸夫は感激して、
カミナリに打たれたような思いだった。
『これがトップのあるべき姿か』
・船会社との料金交渉のやり方、作業員の賃金体系から労働管理全般、
安全衛生、営業関係にいたるまで、スクラットン社長は、幸夫の質問に淀みなく、
次々と懇切丁寧に答えてくれた。
・義理と人情と恩返しの精神。
この、GNOの精神が日本の港には詰まっており、
その精神を先輩たちから受け継いだ労働者たちが大勢いる。
そうした積み重ねが、港の歴史なり。
・横浜には香港やシンガポール、
上海や大連などの近隣諸国の港湾関係者や世界の港湾関係者が高評価の秘訣を学びに、
たびたび視察に訪れる。
・先輩たちのおかげで、横浜というブランドは世界に知れ渡っている、と同時に、
国内でも「日本のミナト・ヨコハマ」の信頼は非常に厚い。
・横浜市の歴代市長や局長は、港の話になると、よく
「横浜の経済の3割は、港でもっている」と言ってくれる。
→
港で生きてきた幸夫たちにとって、とてもありがたいことなのだが、残念ながら実情は違う。
・横浜港は言われるほど稼いでいない。
納めている法人税にしても、決して褒められるようなものではない。
貢献しているところは、
港湾人がよく行く野毛の居酒屋さんぐらいなものである
・横浜は、ラストポートの地位を、中国
韓国の港湾に完全に奪われてしまった。
・日本の港の実力を最大限に活かして世界的な存在感を保つためにも、
国を挙げてのバックアップが不可欠である。
★コメント
古代より港には、ロマンがある。
学びなおしたい。