近時、成年者だと判断して公開捜査を行ったところ、被疑者が未成年者であったため、このような公開捜査の是非が問題となっています。実は、少年法自体には、このような捜査を禁じる個別の規定は存在しません。しかし、捜査機関(警察・検察)は、少年法の趣旨を勘案することで、このような捜査を差し控えているのです。

 

少年法の理念はあくまで「少年の健全な育成を期し、非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整」(同法1条)を主たる目的としています。法執行機関である捜査機関は同法の趣旨を無視していないのです。

近時この話題が持ち上がったのは、振り込め詐欺の出し子の捜査に、ATMが設置してある場所の防犯カメラの映像を公開したというもので、捜査機関は「映像から若年成年であると判断した」というもので、それに対して一部研究者から「若年成年者か未成年かは一見わからないから、このような捜査は控えるべき」というコメントがありますし、一見わからないのはその通りでしょう。

かといって、捜査機関としては、未成年であったとしても、本音からすれば公開捜査をやりたいはずです。振り込め詐欺のような、背後に黒幕のいる事件では、末端の人間に対する捜査から遡って特定していくというのが常套手段です。まして、「バイト」で出し子になっているのであれば、どういう経緯で「バイト」を知ったのかなど、単に捜査に止まらない、刑事政策のきっかけにもなります。このような観点からすれば、公開捜査の絶対禁止は、むしろ社会的に無用の足かせを課せられた状態になります。

 

そうすると、問題は、結局、「市民のあり方」に跳ね返ってきます。捜査段階では有罪だと決まったわけではないとか、少年者の可塑性とか、そういった刑事司法の土台の部分が理解されていないだけでなく、浅ましい義憤や、犯罪などを根拠にした、その実においてはただの憂さ晴らしが横行することが、巡り巡って、このような本来正当にとられるべき手段が、「リスク」故に取れなくなっているという面を見逃すことは出来ません。現状、捜査機関からすれば、公開捜査をしても、証拠不十分や、そもそも誤認であって釈放や不起訴裁定、無罪判決が出た場合などには、それこそ「取り返しがつかない」ことをしたことになってしまいます。それも、ひとえに、上記のような(浅はかな)義憤なり、憂さ晴らしなりで「保存・拡散」されたときには、その(時には無実の)少年の人生を潰したことになりかねないのです。その道義的責任は決して捜査機関のみならず、そのような行為をした市民にもあることは疑われません(法的責任に問うことは、通常難しいものと考えられます)。

 

本稿を読んだ一部の人は「そもそも少年法がなければこんな問題は生じない」とか、「市民のせいにするな」というような批判をする人もいるでしょう。しかし、いずれも的外れです。前者に対しては、本稿の問題は実は少年法だけの問題ではなく、捜査一般の問題になり得るからです。ただ、それが鮮明な形で現れるのが少年に対する捜査の時だというだけです。

後者については、日本が民主主義国家である以上、法制定・執行の最後の根拠は「国民」にあり、その国民のあり方を良くも悪くも受けざるを得ないのです。国民が成熟しないうちは、法制定・執行も成熟しきることはない。したがって、むしろ法制定・執行機関を成熟していない(「人のせいにするな」)と批判すること自体が、発想が逆転しているのです。


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