社会科学としての法学が机上の空論に堕さないためには、それが「現実」に基づくことが必要です。それが法律実務となればなおさらです。
法律を作ったり改廃する場面で、当該の立法行為を基礎づける事実のことを立法事実と呼んでいます。例えば、よくあるものでは、「少年犯罪が凶悪化しているから少年法を改正(・廃止)する」というような場面での「少年犯罪が凶悪化している」という部分が立法事実です。
対して、裁判や法の適用をする場合に前提となる事実を司法事実と呼びます。例えば、Xが、死亡結果が発生するのを理解しながら、Aにナイフを刺して死亡させたために、Xを殺人罪として、懲役7年にするというような場合の「Xが、死亡結果が発生するのを理解しながら、Aにナイフを刺して死亡させた」という部分が司法事実となります。

立法事実というのは変遷します。より厳密にいうと、法制度を支えている現実が変遷することで、法解釈の基礎となる事実を換えることが必要となります。例えば借地借家法は立法時は貸主が借主よりも圧倒的に強い地位にあったという立法事実を基礎にしていますが、もし今後借主が強くなった場合には現行の借地借家法は維持できませんし、一部でそういう現象があるのなら、当該の適用すべき条文の解釈により当該規定を適用しないということもあり得るのです。

司法事実は、裁判の場であれば、当事者の提出する証拠から裁判所が自由な心証(民事訴訟法247条、刑事訴訟法318条)によって認定します。
多くの人は「裁判所では真実が明らかになる」と思っていることでしょう。しかし、(こう言っては実務家にも失礼ですが)それは誤解です。それは、刑事事件における冤罪などというある種特殊な状況を議論するまでもなくです。
民事訴訟の場合、(不文の)基本原則として「弁論主義」というものが働きます。これは「判決の基礎となる事実と証拠の収集・提出をもっぱら当事者の権限とする」というもので、その第一原則として「裁判所は当事者が主張していない事実を認定してはならない」というもので、第二原則には「当事者のした自白に裁判所は拘束される」というものがあります(なお、第三原則は「職権証拠調べの禁止」です)。ここでの「自白」とは、当事者間の事実に関する主張が一致した場合です(厳密には主張責任との関係での限界があります)。したがって、原告Xが「私は、被告Yに、平成25年2月28日に返す約束で200万円を貸した」と主張したとして、被告のYが「はい、そうです」と言ってしまえば、現実には平成28年2月28日に返すことになっていたとしても、そして裁判所がそれに気づいても、裁判所は「平成25年2月28日に返す約束だった」と認定しなければならないのです。この意味で民事では必ずしも真実発見の場にはなりません。
そして、民事にせよ、刑事にせよ、事実認定は「証拠」を基礎にしています。裏返せば、真実がどうだろうと、証拠がなければその「真実」を「事実」として認定することはできないのです。例えば、刑事の世界では「違法収集証拠排除法則」が認められており、証拠収集方法が重大な違法を帯び、かつ将来の違法捜査抑止のために必要だと考えられる場合には、その証拠が排除されてしまいます。例えば、違法な尿検査がされたことで判明した覚せい剤の自己使用の場合、その尿検査の鑑定書は排除され、自己使用については無罪となることがしばしばあります。また、民事の場合には、そもそも当事者が証拠を保存していなかったというようなことも少なくありません。そして、証人尋問や当事者尋問(刑事の場合は被告人質問)が上手くいかず、裁判所に主張事実についての疑いを抱かせるということもあるのです。

これらのことからわかるように、訴訟はそもそも「真実発見の場」ではないということが明らかです。また、立法事実にせよ、それを「真実」だというためには、少ない例や印象深い例だけを取り上げて一般化するようなことは避けなければなりません。大は小を兼ねることができても、小は大を必ずしも兼ねないのです。

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