孫崎 享 さんの記事です:
 Date:    Sun, 09 Oct 2016 07:12:26 +0900
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1937年、極東の朝鮮民族を襲った悲劇、日本へのスパイを疑われ中央アジアへの強制移住、10月8日、その運命を描いた映画を見にいく

 

10月8日、浜離宮朝日ホール(小ホール)で、 インガ・モナエンコワ、エオーラ・パク監督「希望あふれる自由の大地」上映   

 

多民族国家としてのロシア 知られざる歴史―朝鮮民族ロシア移住150年に捧ぐ―を見に行った。

 

 この映画はもともと、極東ソ連、朝鮮半島との国境周辺に150年前に移住してきた朝鮮民族が、彼らが日本のスパイになることを懸念したスターリンの命令により強制移住させられた歴史を描いたものである。
 詩人、ボリス・パクが「「1937年」という詩を書き、その詩をもとに映画が作成されたのである。


 私は1993年から1996年駐ウズベキスタン大使をしていた。

 ウズベキスタンにはかなりの朝鮮民族が住んでいる

 何かの縁で、この集落に招待された。

 そこで彼らを襲った悲劇を聞かされた。

 日本との戦争を恐れたスターリンは、極東にいた朝鮮人を中央アジアに強制移住させたのが自分達の歴史という

 移住に際して、持ち物は一人16キロ程度。貨物列車に入れられ移住が開始された。劣悪な環境で多くの人が道中死んだ。

 ウズベキスタンのタシケントに着いた彼らに与えられた土地は、草木も全く生えていない土漠である。ウズベキスタンはイスラム教徒で、そこに大量の異教徒朝鮮民族がきたのであるから、当然彼らを助けたりはしない。

 食料がない。住宅がない。そして冬が来る。ここでも多くの人が亡くなった。

 移住する時、16キロ位の荷物制限の中で、米などの種を持参した人々がいた。

 これを基礎に、土漠の土地で農業を始めた

 そして第2次大戦が開始された。

 敵国人の範疇に入れられている朝鮮人は、兵士にもなれなかった。収容所に送られ、炭鉱等の労働者になった。30人位連れていかれた所で、帰ってきたのはわずか3名程度である。

 この朝鮮人は、敵国人として扱われるわけであるから、当然、朝鮮人であることを捨てさせられた。言葉もロシア語である。生まれてくる子の名もロシア風である。伝統的文化も捨てた。「ソ連人」として生きてきたのである。

 日本は、彼らの強制移住に間接的に関わった。彼らが日本人にいい感情をもつ訳はない。

 ただ、私は彼らを大使公邸に呼んで、話を聞いた。その中に、詩人、ボリス・パクがいた。その妻の心理学者もいた。

 詩人の家族から、映画監督や、音楽家やデザイナーが出た。そして、彼らが監督になり、俳優になり、音楽を奏で、「希望あふれる自由の大地」を作成した。家族史でもある。詩人、ボリス・パクが孫娘をモスクワにある鉄道博物館に連れていく。そこで貨車を示して、自分たちが強制連行されてきた当時を語る。

 そして、上映に際して、招待されたのである。ボリス・パクさんはもう80後半である。家族から、パクさんの詩集を渡された。夫人が、「あなたも頑張っているのね」と日刊ゲンダイを見せてくれた。毎週一回連載している新聞を購入してくれていたのである。


 ロシアの映画の水準は高い。この映画の水準の高さに驚いた。残念ながら、映画監督は今年、亡くなったという。

 この映画はロシア文化フェスティバルの一環として行われた。

 だが、所謂ロシア的な人々はほとんどいなかった。ロシア大使館の人もいなかったのでないか。

 為政者はスターリンではあるが、ロシア民族が朝鮮民族に与えた悲惨を見たくはないであろう。

 多分、在日朝鮮人とみられる人々が多く鑑賞していたようだった。

 終わって、何人かが楽屋に集まった。

 そしてウズベキスタンの朝鮮人と、在日朝鮮人の会話が始まった。

「私たちは同じ朝鮮人なのに、自分達の言葉で、会話ができないんです」

 映画で問いかけている。ウズベキスタンにいる朝鮮人にとって祖国はどこなのだろう。 今住んでいるウズベキスタンなのか。強制連行された地、極東ロシアなのか。更にさかのぼって朝鮮半島なのか。あるいは朝鮮民族の一部が住む中国なのか。ロシアにいる朝鮮人はかなりの人がロシア人と結婚している。自分たちは一体誰なのであろう。


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こんな遠くまで貨車で