東京オリンピック再来も、近づいてきました。大河「イダテン」も佳境に入ってきましたね。
アジアの片隅と思われていた日本で、世界の祭典を開こうと、懸命に努力した人たちの熱意が伝わって来て、
身が引き締まる思いをあらためて噛み締めました。
特に、志半ばで、亡くなった 岸 清一 の生涯にあらためて感謝しています。
というのも、東京オリンピックの時に私自身が代々木選手村で通訳を経験(公開試験に応募してパスしたため)
したことで、永く注目していたこともありますが、
ライフワークとしている 浅野総一郎(京浜工業地帯の父. 太平洋航路横浜-サンフランシスコに豪華客船を走らせた日本人)
は、明治29年に、サンフランシスコで 岸清一に会い、有効なアドバイスを得ていたからです。
原宿に 岸記念館 があるのは知っていましたが、いつ、話題となるか 永年 心待ちにしていたので、
イダテンに 登場し、胸をなでおろしたしだいでした。
岸清一は弁護士としての経験を積む為、明治29年には米国.サンフランシスコに居た処、
東洋汽船社長として 航路権を得るために渡米した浅野総一郎に 会ったのです。 その、お話を少し。
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明治29年。浅野総一郎は、ました。
総一郎に「交渉を成立させるには、ューヨークに居る社長のハンチントンと直談判しなければ駄目だ」とアドバイスし、
総一郎はさっそくニューヨークに向かい、ハンチントン社長と直談判。
当時6隻(要確認)の船がサンフランシスコと横浜を走っていましたが、既に少し古くなっていた。
そこで、新型最新船3隻を投入するならば、東洋汽船もこの 花型航路に参入する ことを約束させ、
その足で直ぐに、英国 に渡り、(シェルブール港)、様々な造船所を自ら調べ、
つきっきりで、造船したのが 日本丸、香港丸、アメリカ丸。
当時としては、早さも豪華さも大きさも世界一の船舶3隻の造船を発注。
このことで、ニューヨークに帰り、ハンチントンと結んだのが、ハンチントン条約。
日本郵船が、内々、どうしても 東洋汽船を傘下に収めたいと願ったのですが、30年間、総一郎は
「浅野あっての東洋汽船=日本の顔としての外国航路」としてその経営に邁進。
日本丸型3隻の新造船は明治31年から、野口英世 や 要人たちを乗せ、横浜からサンフランシスコの航路を走りました。
ところが、英米の造船王たちは、ちっぽけな日本の船が自分たちの船より優秀であることに一刻として我慢できず、
結果として、世界の船舶の巨船化時代を招くことになってしまいました。
浅野もすぐさま、次の 豪華客船の建造を志します。
そして、天洋.地洋.春洋丸の3隻を建造します。
たちまち、1万トンを超える新造船が太平洋航路を走るようになりました。
タイタニック号はなんと排水量: 52,310 トンの巨大い船舶でしたが、
ご存知のようにその処女航海で沈没。(1912年4月14日)
世界は巨船時代を迎え、浅野は 岸清一のアドバイスもあり、
日本人としてはじめて勝ち取った、「横浜-サンフランシスコ航路」その他の航路も含め、
日本が世界の仲間と互角に胸を張れるよう、奮闘努力していきました。
岸清一もまた、日本が世界の仲間と対等でいられる象徴として、東京オリンピック開催に尽力していたのです。
日本という国を世界にアピールするために、オリンピック招致というスポーツの祭典を催すことに岸は努力。
日本という国を世界にアピールするために、浅野は 登用汽船で来日する外国人に日本文化の粋を紹介しようと奮闘しました。
紫雲閣建設 は、ニューヨークで ハンチントンの別荘に招かれて、実業家とは、こうして商談をしたり、外国の賓客をもてなすべきものと悟ったからでした。
明治30年に帰国、それから10年の歳月をかけて、明治40年春に、日本文化の粋を尽くした 紫雲閣が完成したのです。
純子記 20190909 おわり