英国のテクニックマスターは静かに光る/ジョニー・スミス【俺達のプロレスレガシー #1】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスレガシー
第1回 英国のテクニックマスターは静かに光る/ジョニー・スミス
 


 
引退や逝去された選手のレスラー人生を考察する「俺達のプロレスレガシー」。レガシーは日本語で訳すと遺産。プロレス世界遺産に残すべきだろうというレジェンドレスラーにスボットを当てた新連載である。
 
記念すべき第一回は誰にするべきか悩んでいたが、今の世の中やプロレス界にはなかなかいない無印良品のようなレスラーを取り上げることにした。
 
その男の名はジョニー・スミス。
180cm 112kgの肉体を誇り、仕事師、英国の爆弾と呼ばれ、イギリスのランカシャー・レスリングを駆使する技巧派レスラー。
プロレスは魑魅魍魎で、欲望とエゴが充満しているブラックホールのようなゾーンだ。その中で一服の清涼剤のような稀なレスラー…それがジョニーだった。
 
今こそ私は彼のレスラー人生を考察したい。
 
ジョニーは1965年8月7日イギリス・ランカシャー地方ワーリントンで生まれた。本名はジョン・ヒンドレーという。彼の叔父はダイナマイト・キッドの師匠でありプロレスラーとして活躍したエドワード・ベトリー。ジョニーはよく休みになると叔父の家に遊びに行っていた。ベトリーの自宅はジムがあり、そこでレスラーを指導していた。
 
「最初のうちは練習を見ていただけですが、次第に一緒にやらせてもらうようになりました。7,8歳の頃です。(中略)ジムで遊んでいるうちにエルボースマッシュの打ち方やヘッドロックのかけ方を教えてもらうようになった。そうなると次はなに?ってなりますよね。技を覚えるたびに興味が増していったんですが、プロになろうなんて考えはまったくなかったですね。まあ、いわゆる趣味としてやっていたようなもので、理由をつけるなら健康のためとか、体を鍛えたいとか、護身術を身につけたいとか。皆さんが空手や柔道を習うきっかけと同じだと思いますよ」
【週刊プロレススペシャル 純プロレス主義/ベースボールマガジン社】
 
サッカーやラグビーといったスポーツも経験したことがあったが、レスリングの世界にのめりこんでいく。叔父が連れていってくれるプロレス興行観戦を彼はいつも楽しみにしていた。そんな彼がプロレスラーになる決意を固めたのは16歳の時。そのきっかけはイギリスの景気低迷だった。
 
「大学をいい成績で卒業したからといって就職できるとは限らない社会情勢になってしまったんですね。企業で働いてもリストラされる人も多かった。(中略)高等な教育を受けたとしても職に就けるかどうかわからない。そんな時代にあって、私はレスリングに夢中になってましたから、どうせなら叔父に教わったものをそのまま生かしたらどうかなと
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1982年1月にデビューしたジョニーは、ジュニア・ロイヤル、ジョン・サベージというリングネームでイギリスのジョイントプロモーションやドイツで経験を積んだ。彼がデビュー時から影響を受けた人物は叔父ベトリーだった。
 
「デビュー前には毎日24時間レスリングオンリーの生活を強いられました。トレーニング時間以外も、叔父からレスリングでの体験談やアドバイスをいろいろ聞かされました。その影響はいまでも大きいですね。彼は現役時代、決して名レスラーではなかった。むしろコーチとしても名を馳せた人なんですね。レスリングの愛情、それを伝えようとする情熱は凄いものがありましたよ」
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恐らくジョニーは叔父のレスリングへの愛情とテクニックを継ぎ、プロレスラーになるつもりはなかったという思いを翻して、リングに上がる運命を背負うことにしたのかもしれない。
 
1985年に叔父ベトリーとスチュ・ハートとの繋がりでカナダ・カルガリーに渡る。スチュ・ハートが主催するスタンピードレスリングに参戦する。そこで同郷イギリスの先輩レスラーで、叔父ベトリーの弟子でもある”デイビーボーイ・スミスの従兄弟”ジョニー・スミスに改名する。ブルース・ハートを破り、カルガリー地区英連邦ミッド・ヘビー級王座を獲得したり、クリス・ベノワ(ワイルド・ペガサス)との抗争でカルガリーでの地位を確立していく。また1987年6月には新日本プロレスに初来日している。その後、ジョニーはデイビーボーイの名コンビ(ブリティッシュ・ブルドッグス)を結成していたダイナマイト・キッドとブリティッシュ・ブルーザー(ニュー・ブリティッシュ・ブルドッグス)というチームを組み、デイビーボーイとベノワと抗争していった。
 
カルガリー時代のジョニーについて、スタンビードレスリング参戦経験者である北原光騎はこう語っている。
 
「強かったですよ。日本ではなかなか勝てなかったけど、シュートはすっごい強い。クリス(ベノワ)も取れなかったですから。ジョニーが一番強かったかもしれない」
【Dropkick あの日の全日本プロレス、SWSを語ろう■北原光騎×小佐野景浩】
 
クリップラーとしてWWEで頂点を極め、その実力からレスラー仲間から恐れられたベノワよりシュートが強かったという事実は驚きだが、だが叔父ベトリーの血統を継ぐ男なわけなので納得できる話でもある。
 
 
当時のイギリス出身レスラーは2つタイプに分類されていた。一つはスティーブ・ライト、ピート・ロバーツ、ウェイン・ブリッジ、トニー・セントクレアーなどのランカシャーレスリングの伝統を受け継いだレスラー。もう一つはダイナマイト・キッドやデイビーボーイ・スミスといったランカシャーの伝統と近代的プロレスをミックスしたレスラー。20代のジョニーが展開したスタイルは後者だった。キッドやデイビーボーイのようなカナダ式ハイスパートレスリングを展開し、ジャーマンスープレックスホールドや旋回式ダイビングボディプレスなど器用な一面も併せ持っていた。
 
1989年2月にキッドの紹介で全日本プロレスに来日したジョニーはその一年後にキッドの正パートナーとなり常連外国人レスラーとなった。1991年4月6日にキッドとのコンビで小橋健太&菊地毅を破り、アジアタッグ王者に輝く。
 
だがジョニーのパートナーであるキッドが1991年12月に引退。パートナーを失ったジョニーだったが、関係者からの評価が高かったのでその後も全日本に来日を続けた。
 
そんな時に私は初めて彼の試合をテレビで観た。1992年5月16日の後楽園ホール大会のセミファイナル。ジャンボ鶴田&田上明VSパトリオット&ジョニー・スミス。この試合の注目ポイントは初来日のマスクマン”空爆戦士”パトリオット。後に常連外国人レスラーとなるが、どんなレスラーなのかまだ未知数だった。ちなみにパトリオットはザ・トルーパーというリングネームで以前素顔で来日経験がある。そんなレスラーのパートナーに選ばれたのがジョニー。まだ子供でプロレスファン歴が浅かった私にはこのマッチメークの意味が分からなかったが、よくよく考えるとどう転ぶか分からないパトリオットにサポートでき、同世代レスラーとなるとジョニーは最適だったと思う。結果的にパトリオットが跳躍力とパワーファイトでファンの心を摑んだ。その内助の功を果たし、パトリオットをリードしたのがパートナーのジョニーだった。
 
また超新星と呼ばれた新人の秋山準の相手にジョニーはよく指名されている。素質抜群のスーパールーキーとはいえ、まだ新人でキャリア不足の秋山相手でもプロレスとして成立させられる力量を恐らく、関係者が評価しての配置だったのだろう。ちなみにデビュー4か月の秋山が挑んだ試練の7番勝負の第6戦の相手がジョニー。一進一退の攻防で場内を沸かせて、秋山に敗れるも、ジョニーの技量が光った試合だった。実はデビュー前の秋山が試合形式のスパークリングの相手を務めていたのがジョニーだったという。
 
やられ役からタッグの穴埋め要員などバイプレイヤーとしてあらゆるポジションをこなすジョニー。その優しい性格でアクの強いこの業界では珍しく欲をむき出しにしない男で、ギャラアップの交渉などを御大・ジャイアント馬場に一切しなかった。だが関係者の評価は高いが、ファンの評価はまだ芳しかったジョニー。器用貧乏で無個性が故、どうしても個性が埋没してしまっていたのだ。
 
だがジョニーは己のプロレスを信じていた。彼は大好きなレスリングで生計を立て、プロフェッショナルとしての仕事をまっとうしてきたからだ。
 
「私は海外に出ることで、ほかのブリティッシュレスラーにはない経験を積むことができた。だからといって、海外のスタイルを盗む気はありませんでした。いってみれば盗むのではなく自分のレスリングにミックスする、という感じですね。それによって自分自身のスタイルを作る。それが私自身のアドバンテージとなる。叔父から教わったアドバイスです。ほかのスタイルをコピーするな。コピーしたら、現地のレスラーと同じになってしまう。そうなればお前の居場所はないと。以来、私は50%のブリティッシュスタイル、50%のニュースタイルで現地のファンにアピールしてきました」
【週刊プロレススペシャル 純プロレス主義/ベースボールマガジン社】
 
自分自身のスタイルに自信はあった。そして内に秘めたプロレスラーとしてのプライドがあった。プロレスへの偏見について彼は冷静かつ熱く語った。
 
「(プロレスへの偏見は)ジャパンに限らず、プロレスのある国ではどこでもそうなのでしょう。ひじょうにハートが痛む問題です。多くの時間を費やして愛してきたことをフィックスト(八百長)の一言で片づけられてしまうんですから。たとえば、映画のワンシーンをとってみてもだれもフェイクなんてあえていいませんよね。なのに、なぜプロレスでケガをしかねないムーブでフェイクといわれなければならないのか。(中略)実際、世界には多くの団体があって、それぞれにスタイルがあって方針も異なる。スポーツエンターテイメントとして成功しているところもある。ひとつの団体がプロレスのすべてではないから、これも難しい問題ですね。ただ、私が子供の頃、叔父にこんな教えを受けたことがあります。ヘッドロックをかけられて、これがフェイクか?と。痛くて動けなくて私はどうすることもできない。叔父は手加減なく技をかけることで、プロレスへの偏見を私から取り去ってみせたんですね。もうフェイクだなんて思えませんよ。ただのヘッドロックであれだけ苦しんですから」
【週刊プロレススペシャル 純プロレス主義/ベースボールマガジン社】
 
ジョニーに転機が訪れる。UWFインターナショナルでトップ外国人レスラーとして活躍し、全日本に移籍してきたゲーリー・オブライトのアドバイスを受け、ランカシャーレスリングの引き出しを開放するようになると彼の評価は少しずつ上がっていた。一生懸命に積み重ねる地道な努力とレスリング技術でようやく評価されるようになったジョニー。何の変哲のないタッグマッチでも、彼の手にかかると最終的には大歓声になる試合も増えてきた。まさしく全日本の隠れた名勝負製造機。ひたむきなジョニーに対して「スミス」コールが起こる機会も増えてきた。
 
全日本に出現したイギリス出身のテクニックマスターが繰り出す妙技は、なかなか見たことがない代物が多い。パワープレート(シットダウンパワーボム)、ブリティッシュフォール(変型リバースDDT)といった叩きつけ技、スープレックスを駆使するのだが、特筆すべきはランカシャーレスリング仕込みの腕殺しである。
 
アームホイップで相手を倒した後、スミス自身は相手の腕を取ったまま逆回転して、相手の腕にダメージを与える腕殺しはジョニー・マジック。
相手の片腕を両腕で掴んで、その状態で相手の背後へ回り相手の腕を逆手にした状態で絞り上げる。さらに腕をロックしたまま、その腕へ自らの肩を数度ぶつけた後、片膝をつかせてのチキンウィングフェイスロックに移行するはジョニー・マジックII。相手の片腕を捻り上げつつもう片方の腕で相手を持ち上げ叩き落とした後、捻っていた腕へギロチンドロップを放ち痛めつけ、さらに両足で挟み込んでマウントポジションを取るように相手に馬乗りになって捻り上げる腕殺しはビッグベンと呼ばれた。
 
そんなジョニーの存在にスポットライトが当たったのが1997年11月の世界最強タッグ決定リーグ戦・開幕戦。ジョニーはウルフ・ホークフィールドと組んで、今大会の優勝候補・三沢光晴&秋山準と対戦した。ジョニーは持てる力を三沢&秋山にぶつけた。
 
腕を独特の手法で痛めつけるジョニーマジックには会場は驚嘆の声が上がった。次第に沸き起こる「スミス」コール。終盤に得意のチキンウイングフェースロックを極めたジョニー。ジョニーをカットした三沢になんとブーイングが起こる異例の事態。三沢&秋山の猛攻をジョニーは最後まで受け切り、30分時間切れ引き分け。
 
三沢&秋山とジョニー&ウルフではレスラーとして格では雲泥の差があった。しかし、ジョニーは技量でその差を埋めて見せた。試合後、場内は大歓声に包まれ、「スミス」コールが鳴り止まなかった。
 
そこからでさらに存在感が増していったジョニー。とにかく彼の試合にはまずハズレがないのだ。きちんとクオリティーの高いものを安定供給してくれる。だからこそ私は冒頭で彼を無印良品と称したのである。そして個性派や怪物だらけのプロレス界だからこそ、ジョニーのような無個性が際立ってきたのだ。
 
1998年1月にウルフとのコンビで、長期政権を築いていた秋山準&大森隆男を破りアジアタッグ王者となった。その後、ジョニー・エース率いる外国人ユニット・ムーブメントの一員となり、ベイダーのタッグパートナーに指名されたり、活躍の舞台を与えられ、きちんのその仕事を果たしてきた。まさしく職人レスラー。セルフプロデュースがうまくないと生き残れないと言われているプロレス界において、自分の性格や特性に合った彼の「自己主張しない生き方」は「フォア・ザ・チーム」の精神が強い全日本には合っていた。
 
そんなジョニーを高く評価していたのが三沢光晴。一生懸命に頑張る姿勢、まじめな性格、どんなポジションでもプロの仕事をしてのける確かな技量を三沢は「頑張っているレスラーは評価している」と評していた。
 
2000年、三沢は多くのレスラーやスタッフを率いて全日本を離脱し、新団体プロレスリング・ノアを旗揚げする。日本人レスラー2人と外国人レスラーだけになった全日本に最大の危機が訪れる。三沢はジョニーをノアに誘っていた。だがジョニーはノアに参戦せず、全日本に残留する。そこから2001年1月に太陽ケアと組んで、世界タッグ王者となった。ジョニーは全日本分裂についてこう語っている。
 
「分裂のすべてが必ずしも悪いともいえないんです。ノアができたことによって、オールジャパンに新しい人材が入ってきた。これによって陽の目を見たレスラーもいるんです。しかし、その団体の進化を妨げたのも事実だし…。(中略)もしもこの世がパーフェクトなら避けられる事態なんですよ。しかし、悲しいことにパーフェクトな世界なんてありえない。分裂によってオポジットの存在ができる。そこに勝とうとする気持ちが生まれる。これによって新しいコンペティションが作られるのなら、分裂はニューステップなのかもしれない」
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ちなみに三沢はジョニーを獲得できなかったことをずっと悔やんでいたという。その気持ちはよく分かる。プロレス団体にとってジョニーのような安定供給のバイプレイヤーの存在は必要だからだ。
 
全日本のテクニックマスターとして独自の存在感を放つジョニーだったが、2003年4月10日広島大会の試合前に倒れ病院に運ばれ入院する。どうやら体重増加もあり、心臓に不安を抱えていたようである。全日本からフェードアウトした彼は2004年にIWAジャパンに来日予定だったが、体調不良でキャンセルしている。そしてジョニーは健康上の理由でプロレスラーを引退した。引退試合もセレモニーもなく、静かにリングを去った。引退したジョニーはカナダ・カルガリーで警察官となり第二の人生を歩んでいる。
 
健康上の理由とはいえ本当にやめたのはもったいないレスラーだった。もっと実績や評価を残したのかもしれない。2016年にカナダのプロレス殿堂を果たしたようだが、その枠でも収まらないほどのレスラースキルがあった。
 
だが多くのレスラー達は知っている。ジョニーがリングの内外でグッドレスラーだったことを。ジョニーのパートナーを務めたダイナマイト・キッドによると普段は紳士で控えめな性格だったジョニー。そしてファン対応も真摯だったという。全日本参戦中のある日、彼は日本のファンから手製のリングジャケットをプレゼントされた。だがそのジャケットに描かれたジョニーの英語綴りの一部が間違っていた。それでもジョニーは引退するまでそのジャケットを愛用したという。それがジョニーという男だった。
 
「レスリングは私の一番好きなことですから。そのレスリングで世界中をまわれるし、飽きることがない」
【週刊プロレススペシャル 純プロレス主義/ベースボールマガジン社】
 
 
ジョニーは本当はプロレスという業界に携われて、レスラーとして生計を立てられて、多くの強豪と試合ができて、仲間に出会えて、ずっと幸せだったのだろう。穏やかな性格、叔父エドワード・ベトリー譲りのテクニックと哲学が融合されて、穏やかでも確かに輝くジョニー・スミスのプロレスに我々は魅了されていたのだ。
 
英国のテクニックマスターは静かに光る。
無個性でも、器用貧乏でも、控えめでも光になれるのが、摩訶不思議なプロレス界の素晴らしいところなのだ。