ゆきゆきて、謙譲の戦闘電脳機/スーパー・ストロング・マシン(平田淳嗣)【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第208回 ゆきゆきて、謙譲の戦闘電脳機/スーパー・ストロング・マシン(平田淳嗣)

 


 


 

1994年10月30日東京・両国国技館。

この日は新日本プロレス・SGタッグリーグ戦・優勝決定戦である。

 

当時の新日本は秋にタッグ祭りを開催し、タッグ宣戦布告に力を入れていたが、なかなか集客や話題提供に苦戦していた。

それでもタッグ戦線の中心として立ち、クオリティの高い試合を提供してきたのが、優勝候補で、ファイナルに進出した武藤敬司&馳浩だった。大歓声を浴びて彼等がリングインする。対戦相手のチームのテーマ曲がかかる中、現れたのは"極悪バタフライ"蝶野正洋一人だけ。パートナーがいない。蝶野のテーマ曲が終了しようとしていたその時、ゆっくりとゆっくりとセコンドも誰もいない状態で彼が姿を現した。その後ろ姿にはどこか哀愁が漂う。すると音楽が終わった頃に会場から彼へのコールが鳴り響いた。マスクを被り続けて10年。レスラー生活16年。パートナーの蝶野よりも、対戦相手の武藤と馳よりも先輩でありながら、後輩にどんどん先を越されてきた男。実力は申し分ない。タフネスでパワーもあれば、テクニックも、体格もある。なのに彼はトップに立てず足掻いていた。

 

自身のテーマ曲がかからない花道を彼はどんな心境で両国国技館の長い花道を歩いていたのだろう。

それでもファンは彼を見捨ててはない。

だからこそ、彼の名を呼ぶのだ。

 

「マシン、マシン」と…。

 

彼の名はスーパー・ストロング・マシン。

183cm 115kgのバランスの取れた強靭な肉体と確かな実力を誇り、哀愁のマスクマン、戦慄の殺人魔神、機械の中の機械と呼ばれた実力派マスクマン。ダイビングヘッドバット、ジャーマン・スープレックス・ホールド、ライガーボム、マシン・ラリアット、サソリ固め、STF、魔神風車固めと数々のテクニックを持つ。

そしてこの試合で彼は10年間被ってきたマスクを剥ぎ、素顔の平田淳嗣に戻ったのである。

これはトップに立つ実力がある男が機械となり、敢えてトップに立たない生き方を選び、プロレス界を生き抜き伝説となったお話である。

 

スーパー・ストロング・マシンこと平田淳嗣は1956年12月20日神奈川県平塚市に生まれた。本名は平田淳二で、この名前で新人時代は闘っていた。彼は少年時代から大のプロレスファンだった。中学生の時に将来はプロレスラーになる事を決意していた。

 

「中学のときからプロレスラーになることは決めていて。中学の親子面談のときも、担任の先生が俺がプロレスラーになりたいことを知っていて、おふくろの前で『夢を持つのはいいことだけど、ちゃんとした道を……』とか言い出すんですよ。馬鹿にされてるみたいで頭にきちゃってね(笑)。おふくろも『そうですね』とか頷いていたけど、俺は逆に火がついて。プロレスラーになりたい気持ちがだんだんと強くなりましたね」
【おまえ平田だろ!平田淳嗣の「スーパーストロングなプロレス人生」/Dropkick】

 

高校に進学し、柔道やボディービルで汗を流すも、プロレスラーになる夢を捨てきれず中退する。

 

「とにかく実家にいたらプロレスラーになれないと。実家は平塚なんですけど、そこにいたら先に進まないなと思って東京に出てきて。職場は何度か変わりましたけど、身体を作りながらチャンスを狙ってました。なかなかチャンスはなかったけど、それはそれで都合がよかったんです。自分の身体はまだ作れてなかったから」
【おまえ平田だろ!平田淳嗣の「スーパーストロングなプロレス人生」/Dropkick】

 

上京して新聞配達店に住み込みのアルバイトをしてながらプロレスラーを目指した。柔道場やジムでトレーニングをしながら、生活をしていたある日、平田は店長に誘われ、アントニオ猪木VSチャック・ウェップナ―の異種格闘技戦を観戦した際に手にしたパンフレットを後日、読んでみると「真人レスラー募集」という広告が掲載されていた。だが、その募集は締め切らていた。そこで彼はある行動に出る。

 

「次にいつ告知が載るかもわからないですし、いろいろ考えたところ『山本小鉄さんに手紙を出そう』と。あの頃の新日本は山本小鉄さんを中心に選手が鍛えあげられている雰囲気があったんですよ。そのことは知っていたし、猪木さんに手紙を出してもきっと読んでくれないじゃないですか(笑)。汚い字で『プロレスラーを目指すために新聞配達で頑張ってます……』と一生懸命書いて。それで手紙を出したんです」

【おまえ平田だろ!平田淳嗣の「スーパーストロングなプロレス人生」/Dropkick】

 

すると後日、平田が住み込みで働いているに山本から電話がかかってきた。入門テストを受けに来てほしいとのことだった。彼は大田区体育館で入門テストを受け、見事に合格する。ちなみに足の運動を数回見ただけで、山本は「この男はできるヤツだ」と合格させたという。

 

1978年5月に新日本に入門した平田。ほぼ同期には前田日明、ヒロ斎藤、ジョージ高野がいた。同年8月26日の長野県飯山大会の藤原喜明戦でデビューを果たす。

 

「柔道もやっていたけど、俺はずっとプロレスファンだったから、何となく受け身の取り方とかわかったんだよ。昔はそんなに大きな投げ技なんかはなくて、レスリング中心だったしね。まあ、俺が思うに猪木さんは派手なプロレスじゃなくて、若い選手にはぶつかり合いを見せてほしいっていう狙いがあったんじゃないかなと。(中略)試合をしているうちに、いろんな技を覚えてきてね。受け身も、スラムも投げられながら覚えていった感じだったよね。大体は、俺はデビュー戦の相手が藤原さんだったから、道場のスパーリングの延長でガッチガチ(苦笑)」

【Gスピリッツ vol.28/辰巳出版】

 

この頃の新日本は前座戦線が激しく血走っていた。時にはつまらない試合をするとリング上や控室で猪木や小鉄にボコボコされるほどの緊張感と殺伐感があった。その中で前座の名勝負数え歌と呼ばれたのが平田VS前田だった。若手時代の前田は対戦相手を壊してしまうことから「クラッシャー」と呼ばれていた。

 

「最初の頃の前田日明は臨機応変に対応できなかったんだよね。プロレスファンじゃなかったから。だから最初の頃は試合をしててつまらなかったけど、そのうちに覚えてきたら…痛いんだけど、面白くなってきたよ。やり甲斐があるっていうか。そういう闘いが昔の新日本プロレスの若手の売りだったよね」

【Gスピリッツ vol.28/辰巳出版】

 

ちなみに平田によるとこの頃の新日本の前座はロープにはあまり飛ばないで、アマチュアレスリングやグラウンドの攻防が主で、そこにパンチやキックを加えたスタイルだったという。

 

1982年11月に平田はメキシコ遠征に旅立つ。実は元々は仲の良かったブレット・ハートからの紹介でカナダ・カルガリー遠征でほぼ決まっていたのだが…。

 

「長州さんがメキシコからちょうど帰ってくる頃だったんですよ。それでメキシコの団体のほうから『長州力みたいな選手を貸してほしい』と言ってきたらしいんですよね。そのとき俺のリングシューズが白で、タイツも黒だから長州みたいだってことで選ばれたんです(笑)。ちょうど海外に行く予定があったし。(中略)でも、メキシコ行きにもの凄くショックを受けちゃって。合同練習をボイコットしたんですよ、頭きちゃって。熱を出したふりして部屋で3日くらい不貞寝してましたから(笑)」

【おまえ平田だろ!平田淳嗣の「スーパーストロングなプロレス人生」/Dropkick】

 

メキシコではカネックが保持するUWA世界ヘビー級王座に挑戦するも、メキシコの生活は最悪だった。水が合わなかったのだ。そんな時にカルガリー遠征中のヒロ斎藤から「カルガリーに来ないか」と誘われた平田は1983年10月カルガリーに転戦する。スチュ・ハートのスタンピード・レスリングで「サニー・トゥー・リバーズ」というネイティブ・アメリカンのキャラクターに変身、正統派レスラーとして活躍する。ザ・コブラを破り、英連邦ミッドヘビー級王座を獲得し、ヒロとの試合はレジェンドレスラーのジン・キニスキーが絶賛するほどだった。

 

「(カルガリーは)一番いい時期じゃないかな。ダイナマイト、ブレット、デイビーボーイ・スミスがいて。自慢じゃないですけど、俺とブレット、ダイナマイトのトリオはゴールデンチームとして人気がありましたから。着いて2週間くらいでチャンピオンになったんですよ。ブルディッシュ・コモンエール・ミドルヘビー級チャンピオン。ベルトは鉄でできているんだけど、旗がシールで貼ってあって剥がれそうでね(笑)。亡くなった阿修羅・原さんもチャンピオンだったこともあるベルトで」

【おまえ平田だろ!平田淳嗣の「スーパーストロングなプロレス人生」/Dropkick】

 

1984年8月に二年ぶりに帰国した平田。この頃の新日本は選手大量離脱に揺れていた。そこで目玉企画として進行していたのが人気漫画「キン肉マン」のプロレスデビュー。そこで白羽の矢が立ったのが平田だった。

 

「個人的には絶対、イヤだと思ってました(苦笑)。カナダではインディアンに扮(ふん)して試合もしてましたし、若かったんでなんでもやってやろうという気持ちはあったけど、さすがにキン肉マンはイメージが違うんじゃないかと……。筋肉があるわけでもなかったし(中略)悩みに悩んで、あるとき、行きつけのスナックのマスターに相談したんです。そうしたら『それは会社があなたに期待しているってことだから、一回やってみたら?』って言われて。それでようやく気持ちが傾いたんですが、数日後、大人の事情で話自体がボツになって(苦笑)」
【新日本プロレスを支えたスーパー・ストロング・マシンがふり返る“二番手人生”「『なんであんなこと言ったんだ!』って怒られたけど気にしなかった」/週プレNEWS】

 

だが著作権の問題もあり、この企画はお蔵入りとなった。新日本は素顔での凱旋試合をさせることを考えるが、平田は拒否し、マスクマンとして生きる道を選ぶ。スターとしての道は用意されていたが、そこで頓挫。反骨のレスラー人生は真の意味でここから始まった。

 

「キン肉マン製造のプランがなかったら、海外に島流しにされていた平田に帰国命令はなかったかもしれないね。キン肉マンは知ってたけど、レスラーとしてのイメージが湧かないから、初めて話を聞いたときには断った。最初の後楽園は見切り発車だったね。その後楽園から数日の間にアニメの『キン肉マン』を放映していた日本テレビの許可が下りずボツになったんでしょう。それで軌道修正してストロング・マシンが生まれたんだ」
【プロレス 覆面レスラーの正体/双葉社】

 

1984年8月24日東京・後楽園ホール大会に将軍KYワカマツに連れられて現れた、目出し帽を被り、アメフトのプロテクターを着用した謎の男。それこそマスクマンとなった平田だった。後日、このマスクマンには「ストロング・マシン」と呼ばれるようになった。そのマスクデザインを考えたのは平田だった。楳図かずおのマンガ「笑い仮面」をモチーフにしたという。殴られても蹴られても笑っている不気味なマスク、また機械という設定は幻の企画となった「キン肉マン」のウォーズマンを彷彿とさせた。ウォーズマンは別名ファイティング・コンピューター(戦闘電脳機)と呼ばれ、相手の弱点を的確につき、勝利を次々と収めてきた残虐超人。皮肉にもストロング・マシンはその設定に近いものがあった。1984年9月7日福岡大会のアントニオ猪木戦で「ストロング・マシン」としてデビューを果たした平田。ストロング・マシンは4号にまで増殖し、マシン軍団と呼ばれた。平田は1号としてマシン軍団の中心メンバーとなった。マスクマンになって「マスクって面白い、人間が変わるんだ」と実感した平田は素顔に戻ることなく、ストロング・マシン1号として猪木や藤波辰巳に対抗するヒールとして低迷期の新日本を支えた。

 

1985年にマシンはワカマツと決裂し、マシン軍団を脱退。そこで正規軍入りに誘おうとしたのが藤波だった。

 

「お前、平田だろ!」

 

藤波自身が後年、「テンパってしまって思わず言ってしまった」と語る前代未聞の正体バラシ。これが「お前、平田だろ!」事件である。ただ平田はその要求に応じなかった。リングネームはストロング・マシン1号からスーパー・ストロング・マシンに改名し、「マシン軍団」の一員ではなく、一人のレスラーとして独立することになる。マシンを素顔に戻し、手薄だった正規軍の一員に戻そうとする意図が見え隠れする中で、平田は背を向けた。ファイティングコンピューターとなった男の意地。

 

「それまで平田淳嗣っていうのは必要がない人間だったはずで、だからこそ島流しにしたはずなのに、今頃になって"お前はやっぱりこっち側だよ。こっちにこいよ"と言っているとしか思えなかった。"ふざけるな!"だよ。猪木さん、藤波さんに反発するマシンに対して、ファンは平田コールをしていたけど、絶対に正規軍に行かない姿勢を応援してくれているっていう手応えも感じていた」

【プロレス 覆面レスラーの正体/双葉社】

 

ちなみにマシンの代名詞となった魔神風車固め(片手をハンマーロックで固めて投げる変型ハーフハッチ・スープレックスホールド)を開発したのもこの頃で、きっかけは同期の前田の12種類のスープレックスに対抗して「20種類のスープレックスを持っている」と豪語し、急遽開発した技だった。その他にもマシン・ラリアット、ダイビング・ヘッドバット、ジャーマン・スープレックスホールド、サソリ固めなど彼は大型レスラータイプでありながらテクニシャンだった。

 

1985年8月平田は新日本を離脱し、カルガリー時代を共に闘ってきたヒロ斎藤と高野俊二(現・拳磁)と日本初のフリー選手のプロダクション「カルガリー・ハリケーンズ」を設立し、全日本プロレスとジャパンプロレスに宣戦布告する。だがジャパンプロレスの自主興行以外は上がることはなく、全日本参戦に関しては、新日本と全日本で定めた引き抜き防止協定に則り、全日本は平田達を上げることはできなかったのだ。その後、ジャパンプロレスが新日本に違約金を支払うことでこの問題を解決し、1986年4月から平田達は全日本参戦を果たす。全日本では阿修羅・原とのコンビでアジアタッグ王座を獲得、天龍源一郎が保持するUNヘビー級王座に挑戦し、名勝負を繰り広げた。平田はハリケーンズ時代をこう振り返る。

 

「今考えると、恵比寿のガーデンプレイスの辺りに事務所を構えていたんだから凄いことだよ(笑)。継続させるのは大変だったけど、夢はあったよね。(中略)あの頃はジャパン、UWF、ハリケーンズで何かをやろうという夢があったと思うんだよ。前田日明ともよくコンタクトを取っていたし。(中略)全日本に上がることが決まって、『俺らが変えてやる!』って意気込んでいたけど、いざ上がってみたらジャパンが既に変えていた(笑)。最初は『のらりくらりやられたら、どうしよう?』と思ってたんだよ。でも、すんなり入れたし、自分らのスタイルを変えないでやれたのはよかったな。まぁ、ジャンボ(鶴田)lは打っても響かない感じで終わったけど、天龍(源一郎)さんは打てば響く。それが凄く嬉しかった

【Gスピリッツ vol.29/辰巳出版】

 

だがそんな日々もつかの間だった。カルガリー・ハリケーンズは解散し、平田はヒロと共に全日本を離脱した長州力らリキ・プロダクション(ジャパン・プロレス勢の一部)所属となり、新日本に復帰する。新日本の選手達から当初、出戻りの彼等に反発していたが、それでも試合内容で平田はきちんと仕事をこなし、好勝負を残していった。特に前座時代にしのぎを削ってきた前田日明との名勝負は後世に語り継がれている。しかし、急激に変わる濁流のようにコロコロとストーリーラインが変わっていく新日本に平田は…。

 

「新日本に戻った後は、まとまりのない流れがしばらく続いて…。その時その時で観ているファンには面白かったんだろうけど、やっている方は川の流れに呑まれちゃっているような感じがあったよ。あのニューリーダーズとかね。自分の意思とは関係なく物事が進行している時期もあったな」

【Gスピリッツ vol.29/辰巳出版】

 

平田は1989年3月にジョージ高野とのコンビ「烈風隊」で長州力&マサ斎藤を破り、IWGPタッグ王座を獲得する。この時期からだろうか。平田は実力者でありながら、誰を支えるナンバー2というポジションに甘んじるケースが多くなった。元々は反骨のレスラー人生を歩んできた平田だったが、やがて己の役割を達観し、遂行するようになった。

 

「そこはね、割り切ってました。自分はタッグ屋だし二番手でいい。それが俺の役目、神様に与えられた役目なんだと。そりゃトップにもなりたかったけど、プロレスの世界は“自分が、自分が”だけじゃダメなんです。一歩引いて、パートナーやグループを引き立てるヤツがいないとチグハグになる」
【新日本プロレスを支えたスーパー・ストロング・マシンがふり返る“二番手人生”「『なんであんなこと言ったんだ!』って怒られたけど気にしなかった」/週プレNEWS】

 

その後、仕事人集団ブロンド・アウトローズ(ヒロ斎藤、保永昇男、後藤達俊)と共闘し、1990年12月にヒロとのコンビで馳浩&佐々木健介を破り、IWGPタッグ王座を獲得する。平田とヒロは互いをベストパートナーと認め合うほど息の合ったタッグチームだった。ブロンド・アウトローズはレイジング・スタッフに改名し、全員がマシンマスクで試合をし団結したこともあった。だが仕事人集団には強力なリーダーシップを発揮する親玉がいなかった。やがてレイジング・スタッフは解散、平田は天龍率いるWARに参戦していく。

 

平田がWARに参戦しメンバーの一員になったのは平田の実力を高く評価していた天龍の意向だった。1994年2月5日新日本・札幌大会で平成維震軍との対抗戦で平田は越中詩郎斗の大将戦を挑んだ。思えば平田が新日本に戻ってきた時、越中はまだジュニア戦士だった。ヘビー級での実績や経験は平田の方が勝っていたが、平成維震軍の大将となってからの越中の成長は著しかった。試合は好勝負の末、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチホールドで敗れる。越中の後塵を拝する立場になった平田はこの時何を思ったのだろう。新日本とWARの業務提携が解消したことにより、新日本と契約していた平田の契約があやふやとなった。阿修羅・原と共闘して反WAR軍として活動するも、怪我で戦線離脱。そして彼は静かにWARを去っていった。スーパー・ストロング・マシンはまるで操縦される機械のように新日本に戻っていった。

 

1994年10月の新日本「SGタッグリーグ戦」。この時期、ヒール転向したばかりの蝶野正洋のパートナーが決まっていなかった。蝶野は出場を拒否する中で、彼のパートナーになったのは平田だった。新日本が一匹狼同士の二人を組ませたのだ。蝶野はそれでも断固拒否、だが平田は大人として割り切って蝶野と組むことに精力を傾ける。だが、チームは機能しない。コンビネーションは最悪。味方のピンチにカットにも入らない蝶野。遂にはある公式戦では試合中盤に控室に帰り、平田を見殺し。それでも平田は蝶野とのコンビで優勝するために、蝶野の仕打ちを耐えた。誰かを支えるナンバー2として長年戦闘電脳機として生きてきた男の意地。後輩レスラーはIWGPヘビー級王座を獲得していき、彼を追い抜いていく。実力は一級品でもどうしてもなれないトップレスラー。いくらナンバー2として生きることを決めた男にも我慢の限界はあった。

 

なんとか勝ち上がり、優勝戦に進出した蝶野&平田は前年優勝チームの武藤敬司&馳浩と対戦。試合はやはり蝶野&平田のギクシャクしたチームワークが全面に出た形で進んでいく。誤爆、長時間ロンリーバトル、仲間割れ…。これでもタッグリーグ戦はぶち壊しだ。それでも最後の最後まで平田は耐えた。パートナー蝶野のヤクザキックを浴びる理不尽な行為にも、グッと堪えた。だが蝶野の横暴は続く。平田の攻撃にも邪魔する事態にキレた平田は怒りのラリアットを見舞う。蝶野と平田は互いに胸を付き合い、空中分解。そして平田は自らマスクを剥いで、蝶野に叩きつけ素顔を観衆にさらした。場内は大「平田」コールの雨が降り注ぐ。「こんな茶番には付き合ってられない」と言わんばかりに蝶野は控室に戻っていった。孤立無援の平田を武藤&馳は集中攻撃し、武藤&馳は二連覇を果たした。

それでも試合が終わっても平田コールは止まなかった。
ボロボロになった平田はマイクを握って叫んだ。
 
「みなさん、こんなショッパイ試合をしてすいません!」
 
それは笑いのネタではなく、タッグリーグ戦の優勝と試合内容を最後まで残そうとしていた男の悲しい叫び。戦闘電脳機は壮絶に散った。そして平田は素顔に戻った。平田は後に蝶野とのコンビとSGタッグリーグ戦についてこう振り返っている。
 
「あのときは毎日、蝶野とガチでもめてました。蝶野の身勝手さも自分は我慢して、これもプロレスラーの仕事なんだと自分を抑えていたんですが、決勝の最後の最後に“ふざけんな、この野郎!!”ってブチ切れたんです。(中略)試合後、リング上で馳と武藤がマイクアピールしているんだけど、お客さんはみんな場外で伏している俺に注目して誰も聞いてない(笑)。そしたら武藤が突然、小声で『平田さん、何かしゃべったほうがいいですよ』って。えっ、俺がしゃべるの!?ってなって… (中略)それで『しょっぱい試合でスミマセン!』って言っちゃったんです。あれは、あの日の試合というよりかは、タッグリーグ戦で毎日もめてしょっぱい試合をやりながら決勝まで来て、最後も俺がやられてしょっぱいという…だから、心から出た言葉でしたね。会社の人間からは『なんであんなこと言ったんだ!』って怒られたけど、別に気にしなかったです」
【新日本プロレスを支えたスーパー・ストロング・マシンがふり返る“二番手人生”「『なんであんなこと言ったんだ!』って怒られたけど気にしなかった」/週プレNEWS】
 
素顔に戻り、新日本正規軍の一員となった平田は因縁の蝶野と抗争を繰り広げるも、そこまで強いインパクトを残せない。それもそうだ。影のように生きてきた男がいきなり表舞台に立つのだ。なかなかアジャストできないし、ナンバー2として習性だってある。長州力、橋本真也、武藤敬司、馳浩、佐々木健介と錚々たるメンバーがいる中で平田が存在を示すにはマシン時代と同様に誰かを支えること。そのことに関しては誰よりも長けている。なぜなら平田は脇役のプロフェッショナルだからである。
 
1995年6月12日の大阪大会で平田は橋本とのコンビで蝶野&天山広吉の蝶天タッグとIWGPタッグ王座決定戦で対戦する。この試合で燃えたのは平田だった。蝶野と天山相手に実力を発揮する。だが中盤に左太ももを痛め、戦線離脱する。蝶天は橋本に集中攻撃。橋本は耐えに耐えて反撃。そして橋本のピンチに地を這ってカバーする平田の姿は感動的だった。試合には敗れたが、平田の名勝負となった。
 
その一か月後、平田は橋本とのコンビでIWGPタッグ王座を獲得する。その勢いで武藤が保持するIWGPヘビー級王座に挑戦し、好勝負を展開するも敗れる。彼は正規軍の重鎮として己の立ち位置を獲得していった。平田にとって橋本はヒロ斎藤と同じくベストパートナーだという。
 
2000年秋、蝶野率いるTEAM2000がマシンもどきのT2000マシンを登場させたのを機に、スーパー・ストロング・マシンを復活させる。男は再び戦闘電脳機となった。その後、魔界1号、スーパー・ラブ・マシン、ブラック・ストロング・マシンなどキャラクターや名前を変えながら大量離脱に揺れ、暗黒期に突入する新日本にマスクマンとして残留して生きる道を選択する。スーパー・ストロング・マシンに三度復活させると永田裕志率いる青義軍の参謀として活躍する。
 
その一方、平田淳嗣として新日本の現場責任者に就任したり、新日本道場でコーチとして多くのヤングライオンを育成した。一度新日本を辞めた出戻り組。だが新日本を支える良心として平田は任務を果たしてきたのだ。
 
2000年代半ばからは、現場責任者や道場のコーチなどを歴任し、若手を指導。当時、新日本の方向性と自分が理想とするプロレスの乖離に悩んでいた柴田勝頼に対しては、親身になって何度も相談を受け、「そんなに悩むなら、1回おまえのやりたいことをやってみろ。よそに行っても、おまえがちゃんと成長すれば、絶対にまた新日本がおまえを必要とする」と、背中を押すようなアドバイスを送っている。
 団体の利益には反することだったかもしれないが、自らの進む道を模索し続けた経験を持つマシンだからこそ、柴田の気持ちが痛いほど理解できた上での助言だった。
道場コーチ時代のマシンの教え方は、デビュー前の新弟子に対して、昭和新日本から受け継がれた基礎をみっちりと教えるというもの。その基礎が出来上がった上で、新しい現代のプロレスを覚えさせていったのが、近年の新日本プロレスだった。
【本当はキン肉マンになるはずだった、スーパー・ストロング・マシン引退。堀江ガンツ/Number Web】
 
激動の時代を脇役として生き抜いた平田淳嗣は2018年6月19日後楽園大会で引退セレモニーを開催する。平田は試合はしなかったが、この日限定で結成されたマシン軍団のセコンドとして試合を見守った。セコンドにはマシンを生み出した将軍KYワカマツがいた。
 
人気覆面レスラー・スーパー・ストロング・マシンがこの日を持って引退。1978年に新日に入門して以来、40年にわたるプロレス人生に幕を下ろした。
 14年から体調不良のため、リングから離れていたベテランレスラーは、この日は名物マネジャー・将軍KY若松氏とともにグレーのスーツで登場。レスラー人生で両目、両ヒザ、脊柱管など6度の手術を受けた体はボロボロ。この日もファイトは不可能でリング下で後輩たちのファイトを見守った。新日も去りゆく先輩に最高の“おもてなし”。SSマシン・NO69(田口隆祐か?)、SSマシン・ドン(中西学か?)、SSマシン・ジャスティス(永田裕志か?)、SSマシン・バッファロー(天山広吉か?)、SSマシン・エース(棚橋弘至か?)という5人の新日道場でコーチ役だったSSマシンの薫陶を受けた後輩レスラーたち(?)がそろって5色のコスチュームにマスクを被って登場。内藤哲也(35)率いる「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」軍と戦った。
(中略)
 試合後のセレモニーにはヒロ斎藤、垣原賢人、柴田勝頼らゆかりのレスラーが次々と花束を持って登場。1人1人にマシンは「ありがとう」と頭を下げた。そして、満場の「マシン」コールの中、マイクを握ると、「私のプロレス人生に全く悔いはありません。やり切ったという感じです」と涙声で絶叫したマシン。観客も全員立ち上がっての引退テンカウントの後、「すみません。もう一つだけ大事な人への感謝の言葉をこの場をお借りして言わせて下さい」と切り出した。「1月25日午前7時15分、28年間連れ添った、わが妻・マサミがガンのため、天国へ旅立ちました。マサミ~、ありがとう!」と最後に天に向かって叫んだ。バックステージに引き上げてからも「引退を決意した一つの理由に妻の死がありました。(新日との)契約が終わる6日前のことでした。ダブルショックで、そのためにも第二の人生をと、きっちり決断しました」と明かすと、「マシンは今日で消えます。ありがとうございました」と頭を下げ、40年のリング生活に別れを告げた。
【スーパー・ストロング・マシン、引退セレモニーで告白「一つの理由は妻の死です」/スポーツ報知 2018年6月20日】
 
平田淳嗣はマシンのマスクを脱ぐことなく、リングを去った。まさしく彼はこの日、プロレス界から跡形もなく消えていった。
 
「俺っていつもフラストレーションをため込んでしまう後ろ姿が悲しいプロレスラーだよね(苦笑)」
【Gスピリッツ vol.29/辰巳出版】

 

かつて彼はこのように自身を語って事があった。確かにその背中に哀愁が漂っていた。機械を名乗りながら、本当に人間臭くて、泥臭いプロレスラーだった。本来、無慈悲で非情な戦闘電脳機はいつしかプロレス界で生きるために、業界のために、団体のために、さまざまな事柄に配慮しながら、謙譲するという生き方を選び、プロレス界における伝説の名脇役となった。魑魅魍魎なプロレス界というけものみちでさまよう中でゆきゆきて、こうなってしまった。でも後悔はない。プロレスが好きで、プロレスに誇りがあるから…。

 

「プロレスは時代のニーズに合わせて常に自分で打ち出していかないと生き残れない世界だよね。(中略)『この辺でいいかな?』と思ったら、そのレスラーは終わり。呑み込まれて堕ちていくだけだよ」

【Gスピリッツ vol.29/辰巳出版】

 

それはスーパー・ストロング・マシンというマスクマンとして、どんな立場やキャラクターになっても長年プロフェッショナルとして渋く輝いた平田淳嗣の重すぎる格言である。トップに立たなくて堕落せず、最後の最後までリングに立ち続けることこそ、真の勝者なのだということを彼は自らのレスラー人生を教えてくれたのだ。