僕らのキッド君が往く人生ローリング・クレイドル/ショーン・ウォルトマン【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第206回 僕らのキッド君が往く人生ローリング・クレイドル/ショーン・ウォルトマン

 


 

一生のうちにそう何人もめぐり逢うことはないであろう、無条件に感動できるくらいの正真正銘のプロレス人間である。まだそれほどメジャーとはいえないし、トシも頭の中身もまだ子どもとオトナのあいだくらいのところにいる。
 いったいだれのおはなしかといえば、ライトニング・キッドのことだ。本名はショーン・ウォルトマン。年齢は20歳。朝から晩までプロレスのことばかり考えている。ちいさいころからプロレスラーになることだけを夢みてきた。想像力が豊かで、観察力が鋭い。感受性が強いといったほうがより正確かもしれない。

ショーン・ウォルトマンはロックンロールの魂を持っている――フミ斎藤のプロレス読本#101 ショーン・ウォルトマン編エピソード1/日刊SPA】

 

プロレスライターの斎藤文彦氏が「正真正銘のプロレス人間」と称したのがショーン・ウォルトマン。1-2-3キッド、キッド、ライトニング・キッド
シックス、シックス・パック、ショーン・ウォルトマンとさまざまなリングネームでプロレス界を渡り歩いたアウトローである彼の新人時代は「キッド君」と呼ばれるほどあどけなかった。私がプロレスを見始めた頃、彼はまだ20歳で日本のルチャ・リブレ団体ユニバーサル・プロレスに上がり無鉄砲なファイトとスープレックスやローリングソバットやニールキックといった派手な日本のスタイルを繰り広げていた。メジャーシーンに上がる前のキッド君は何か大物になっていく予感を漂わせながら、ジャパニーズ・ルチャでキャリアを積んでいた。

 

185cm 98kgというバランスの取れた肉体でありながらどこか瘦せっぽちの印象が強く、アメリカのプロレスが大好きで、日本のプロレスも愛したプロレス少年…それがキッド君だった。だがキッド君のレスラー人生は実に波乱万丈なものだった。業界の政治に翻弄され、逆に利用したこともあった。そんなキッド君は今年(2018年)で46歳、キャリアは30年に差し掛かろうとしている。プロレス少年が求めたレスラー道とは何だったのか?その道の果てに彼は何を見たのか?

 

ショーン・ウォルトマンは1972年7月13日アメリカ・ミネソタ州ミネアポリス(フロリダ州タンパ生まれという説もある)で生まれた。本名はショーン・マイケル・ウォルトマンという。子供の頃からとにかくプロレスが大好きだった。WWE(当時はWWF)とAWAを見て育ったキッド君は高校を中退し、16歳でフロリダ州タンパの名門「マレンコ道場」に入門した。両親にはプロレス入りを反対されたが、それを振り切って選んだのがプロレスラーになることだった。授業料を払えないキッド君は校長ラリー・マレンコにお願いして、レスラーや練習生のスパーリングや技の実験台になることを条件に免除してもらった。実験台になる事で、プロレスを学び、やられることや関節技への免疫をつけた。生活費を稼ぐためにリング屋のバイトをしたこともあった。プロレスビジネスの表と裏を知ったキッド君はさらにプロレスラーとして大成することを心に誓った。

 

1989年、キッド君はマレンコ道場で修業期間を終え、ミネアポリスでデビューする。キッド君は新人時代にレスラーの卵であるテリーという女性に出会いそのまま結婚し、子供を授かった。10代でパパとなった。アメリカのあらゆるインディー団体を転生し、キャリアを積んでいくキッド君はテキサスのGWFという団体で後にパートナーとなるジェリー・リンとGWFライトヘビー級王座を賭けて抗争を繰り広げた。

 

アメリカのあらゆるインディー団体での活躍は日本のプロモーターに届き、1991年11月に日本のルチャリブレ団体ユニバーサル・プロレスに初来日を果たす。彼のプロレスはアメリカと日本のプロレスがミックスされたもので、トップロープから場外へのウルトラ・ダイビング・ニールキックなどの無鉄砲ファイトで話題を呼んだ。またUWF選手が着用するレガースを付けていたのも日本のプロレス愛好していることをコスチュームでも表れていた。現在、WWEのトップも含め、レガースを着用し、日本のプロレスを採り入れたスタイルを展開するレスラーが多くなったが、そのパイオニアは実はキッド君ではないだろうか。

 

キッド君はプロレスにストイックだった。プロレスに関係しないバイトはしたことがなかったし、試合がない日はトレーニングに没頭し、トレーニングが終わるとビデオを観ながらプロレスの勉強をする。家に帰ってもプロモーターに送るためのデモ・テープ編集とプロフィール書類作製をする日々。まさしく骨の髄までプロレスラーなのだ。

 

「僕は基本的にインディペンデント・レスラーですから、試合はウィークエンドに集中します。毎週土、日曜にどこかでイベントがありますから、今は月に10試合くらいですか。ここミネアポリスでも定期的な興行はあるし、ボルティモア、ニュージャージー、フィラデルフィアあたりのイーストコーストの街はインディー系のイベントが多いんですよ。さいわい、往復のトランス、ホテル代を払ってくれるプロモーターもたくさんいますから東部のブッキングも多いですね」

【DECADE(デケード) 1985~1994 プロレスラー100人の証言集(上下巻)斎藤文彦/ベースボールマガジン社】

 

あらゆる団体への売り込みをかけていたキッド君に吉報が届いたのは1993年4月のこと。世界最大のプロレス団体WWEから試合をしてみないかとオファーが来た。そこで数試合敢行した一か月後の5月に再びオファーが届き、そこで「マンデーナイト・ロウ」でトップレスラーの一人であるレーザー・ラモン(スコット・ホール)をムーンサルト・アタック破る大金星を上げた。

 

キッド君は嬉しさと同時に戸惑いもあった。実は5月から新日本プロレスの「トップ・オブ・ザ・スーパージュニア」に参戦することになっていた。キッド君が憧れた団体はWWEと新日本だったからだ。その両団体でキッド君の争奪戦なんてあったのかもしれない。新日本に参戦したキッド君は結果こそ振るわなかったものの、内容で評価される試合を連発し、インパクトを残していた。WWEを取るのか、新日本を取るのか。深く物事を考え込んでしまうキッド君は思い悩んだ。

 

「ちょっと混乱しているんですよ。急にいろんなことが起こりすぎて。やっと新日本のリングに上がることが決まって、そのことばかり考えて自分自身をフォーカスしてきたつもりなのに、こんどは予想もしていなかったWWEというオプションがポンと現れた。本当は跳びはねて大喜びしなくちゃいけないだろうけど、僕には、うん、よく分からない。確かにWWEのリングに上がるのは子供の頃からの夢だった。日本に行ってプロレスをやることも夢だった。ふたつの夢が一度に現実になったら、やっぱりどうしたらいいのかわからなくなるよ」

【DECADE(デケード) 1985~1994 プロレスラー100人の証言集(上下巻)斎藤文彦/ベースボールマガジン社】

 

悩んだ末に当時21歳のキッド君はWWEに入団する。リングネームはレーザー・ラモン戦で劇的な3カウントを上げたことにちなんで1‐2‐3キッドになった。WWEでは中堅として主に活動していた。いきのいい若手有望株といった感じだった。マーティ・ジャネッティやボブ・ホーリーとのコンビでWWE世界タッグ王座を獲得している。そうこうしているとキッド君は良き仲間が生まれた。ディーゼル(ケビン・ナッシュ)、レーザー・ラモン(スコット・ホール)、ショーン・マイケルズ、ハンター・ハースト・ヘルムスリー(トリプルH)の四人である。キッド君を加えた5人組は「クリック」と呼ばれた。

 

ナッシュとマイケルズ、ホール、ウォルトマンの4人は、全米ツアー中は空港―アリーナ―ホテルへのレンタカーでの移動からジムでのトレーニング、試合後の遅い食事までつねに行動をともにする仲よしグループとなり、これに新顔のハンター・ハースト・ヘルムスリー(トリプルH=1995年5月、WWEと契約)が合流し、この5人組は“クリックKliq”(語源はClique=派閥)と名づけられた。同世代のブレット・ハートは徒党を組むことを嫌ったが、“クリック”はいつも5人がワンセットになってビンス・マクマホンとの折衝を試みた。
(中略)
“クリック”の5人組はリング上で“軍団”を演じるよりも、おたがいが敵と味方に分かれて闘いつつメインイベントのポジションとチャンピオンベルトを独占してしまうことがこのグループの発言力、影響力を絶対的なものにすると考えた。

【ケビン・ナッシュ&スコット・ホール&ショーン・ウォルトマン まぼろしのユニット“ウルフパック”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100 第84話/日刊SPA】

 

レスラーが組んでリング内外の主導権を握ってきたクリックだったが、そんな日々は長くは続かなかった。

 

ディーゼル(ナッシュ)、レーザー・ラモン(ホール)、123キッド(ウォルトマン)の3人にはライバル団体WCWから引き抜きの手が伸びていた。
 “クリック”は、ビンスにはひと言も告げずに最後の最後に自分たちだけのカーテンコールを演出した(1996年5月19日=マディソン・スクウェア・ガーデン)。メインイベントはマイケルズ対ナッシュの金網マッチで、セミファイナルはホール対トリプルHのシングルマッチだった。試合終了後、ナッシュ、ホール、マイケルズ、トリプルHの4人(ウォルトマンは首の故障で欠場中)がリング上で抱き合い、別れの握手を交わした。
イベントの“進行台本”にはなかったこの行動はビンスを激怒させたが、ナッシュとホールはこの試合を最後にWWEを退団し、マイケルズとトリプルHはWWE残留を選択した。

【ケビン・ナッシュ&スコット・ホール&ショーン・ウォルトマン まぼろしのユニット“ウルフパック”――フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100 第84話/日刊SPA】

 

1996年にWWEを離脱したキッド君はライバル団体WCWに移籍する。ハルク・ホーガンが悪の親玉、ナッシュとホールが大砲として傍若無人に暴れ回る暗黒組織nWo入りを果たす。リングネームはシックス(Syxx)。nWoの6番目のメンバー、WWE時代のリングネームである1‐2‐3キッドの数字を足した6から命名されたダブルミーニングである。バスキラー(胴絞め式チキンウイング・フェースロック)を携え、WCW世界クルーザー級王座を獲得する。あどけなかったキッド君には立派な髭が生えていた。

 

実はキッド君とナッシュとホールは元々WCWでは「ウルフパック」というトリオで活動していく予定だったが、この三人に正統派だったホーガンが悪党に転向することでプランが変わってしまった。nWoは毎週「マンデー・ナイトロ」で無差別テロを繰り返し、試合よりも乱入とマイクパフォーマンスをメインに活動していた。キッド君はそんな日々にどこか迷いながら過ごしていた。もしかしたら、これでいいのか、俺はプロレスがしたいという欲求もあったのかもしれない。

 

シックス、というよりもショーンは、プロレスさえあればほかにはなにもいらない人間である。バックステージをほっつき歩いているといろいろな人たちとすれちがう。体じゅうからプロレスの香りを発散させている人たち。てんでそうではない人たち。プロレスのそばにいるだけで幸せそうな顔をしている人たち。どうしてそこにいるのかわからないような顔をしている人たちもいる。バックステージは迷路のようなところだから、ショーンはシックスが迷子にならないように気をつけながら居場所を探して歩きつづける。これがほんとうにだれもがあこがれるスターダムというものだとしたら、スーパースターとやらはけっこう退屈じゃん、とショーンは考える。
(中略)
子どものころからなりたいなりたいと思っていたものにはもうなれたのかもしれない。立派なチャンピオンベルトだって手に入れたし、毎週月曜の夜にテレビのスウィッチを入れれば必ずシックスとその仲間たちが画面に現れる。そういうシチュエーションをつまらないなんていうつもりはない。でも、WCWとWWEの“月曜TVウォーズ”はプロレスというジャンルそのものを連続ドラマに変えてしまった。ないものねだりといわれてしまえばそれまでのことなのかもしれないけれど、やっぱりクタクタ、ヘトヘト、ボロボロになるまで思う存分プロレスをやって、家に帰ったらなにも考えずにぐっすりと眠りたい。ショーン=シックスが求めているのはただそれだけなのだ。
 
キッド君は1997年に首を負傷して欠場。その直前にリック・フレアー率いるフォー・ホースメンのパロディスキットをリング上で披露した主犯格としてWCW上層部から大ひんしゅくを買ってしまったキッド君は解雇通告をされた。実はこの解雇にはWCW首脳部が取扱いに困っていたナッシュとホールへのけん制を意味していたという。キッド君は負傷から復活すると1998年3月にWWEに電撃復帰を果たし、旧友トリプルHが率いるDXの新メンバーとなる。キッド君はマイクで「ハルク・ホーガン、エリック・ビショフ、テメーらは最低なんだよ!」という発言に会場は揺れた。WWEとWCWのマンデーナイトウォーの渦に当時25歳のキッド君はとことん巻き込まれていた。
 
WWEに復帰したキッド君はXパックというリングネームに変える。WCW時代に比べて試合でも活躍する機会を得る。WWEヨーロピアン王座、WWE世界タッグ王座獲得(ケインとのコンビ)、WWE世界ライトヘビー級王座とさまざまな王座を獲得した。
 
2002年にキッド君は自身の方向性について首脳部と大喧嘩をしてWWEを退団する。前年の9.11やWCWやECWが崩壊しWWE一強時代になった現状などプロレスを続ける意義を初めて見失っていた。そこでキッド君は心機一転、家族を置いてロサンゼルスに移住することにした。なんと俳優養成学校に入って演技を勉強しようとしたのだ。トレーニングは新日本のLA道場で行っていたキッド君はここで再会したのがDX時代の仲間であるジョーニー・ローラー(チャイナ)。ローラーは女性初のWWEインターコンチネンタル王座を獲得し、”世界9番目の不思議”と呼ばれた女子レスラー。キッド君は若手時代から苦楽を共にしてきた家族を別れ、独りぼっち。一方のローラーはトリプルHの元恋人だった。恋に落ちた二人の愛は一気に燃え上がり、婚約をする。同年12月にローラーが新日本に参戦した時に婚約者としてキッド君は試合はしなかったが来日もしている。
 
だがローラーの世話係をするはめになったキッド君は、情緒不安定のローラーからのDVを受け続けた。これでは一緒にいても何の意味がない。婚約を解消し、精神的に大きなダメージを負ったキッド君はリハビリのために入院する羽目に。ちなみにその治療費を払ったのはWWEのビンス・マクマホンとトリプルHだったという。
 
「僕は何のために生きてるのか?」
 
答えは明確だった。プロレスをやればいいんだ。僕の居場所はプロレスしかない。子供の頃から親しんできたプロレスに還ればいいのだ。2005年にキッド君はTNAに参戦する。リングネームはシックスパックとなった。
 
その後、TNAを去ったキッド君はメキシコAAAやアメリカのさまざまなインディー団体に転戦する。それはまるでプロレスをデビューしてあらゆる地域でキャリアを積んだ修業時代に戻るかのように…。またWWEにはレジェンド枠としてゲストでたまに呼ばれたりしている。今は自由気ままにやりたいときにプロレスをするFA生活を謳歌している。
 
そしてWWE時代の盟友トリプルHがWWEの首脳部に入ると、インディー団体にいい人材はいないかという相談をよく受けるのはキッド君だった。だからキッド君はトリプルHの命を受けてインディー団体転戦をしているという。これは自らの生活を救ってくれた恩を返すという意味合いもあるのだろう。
 
ショーン・ウォルトマンはいつか“この世界”で大物になるにちがいない。こんなにピュアでまじめでマネなプロレス人間はそうそうお目にかかれるものではない。
 
確かにもっとプロレスラーとしてもっともっと評価されるべきレスラーだった。もし、彼が全盛期にTNAのXディビジョンやROHがあれば、彼は日本のプロレスに対応できる若手テクニシャンとしのぎを削り、名勝負を残すことができたかもしれない。ただ業界の政治に巻き込まれたのが本当に運がなかった。でもそれは自業自得な部分もあり、大切な人たちを傷付けてしまった、裏切ってしまったキッド君の罪なのだ。その罪を背負い、キッド君はプロレスラーとして生きている。
 
キッド君のレスラー人生を考察すると、彼はプロレスの世界に飛び込んで、20歳の時に新日本とWWEの二択を迫られた時から、その進路はまるで揺り椅子のように振動していた。プロレス技にローリング・クレイドルという技があるが、この技のようにレスラー人生はグルグルグルグル回っていた。それは正真正銘のプロレス人間でも疲弊する。だから一度はプロレスをする意義を見失った。でも捨てなかったプロレス。例えローリング・クレイドルのように揺れ続ける人生を送ったからこそ、よりプロレスが愛おしくなった。もう政治はコリゴリだ。自分のペースでプロレスをすればいいんだ。会場が小さくても、ギャラが低くてもいい。僕は生きるためにプロレスがしたい…。
 
僕らのキッド君はプロレスがあればそれでいいのだ。