暴れん坊将軍 愛すべき侠客立ち~大胆で繊細なトンパチ列闘生~/橋本真也【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第198回 暴れん坊将軍 愛すべき侠客立ち~大胆で繊細なトンパチ列闘生~/橋本真也

 


2005年7月11日、テレビ朝日のニュース番組「報道ステーション」でプロレスラー・橋本真也の訃報が伝えられた時。当時この番組のキャスターを務めていた古舘伊知郎アナはこんなコメントを残している。
 
「お医者さんは、死因はプロレスとはまったく関係ないと言っているようですね。高血圧とか、いろんな原因があると。ボクはそれだけじゃないとどうしても思うんですよね。ほんとに受け身の取りづらい技をどんどん連発していく。それにファンは歓喜の声をあげる。リング上はまたそれにこたえようとエスカレートする。そのデッドヒートだと思うんですよね。ボクはそういう意味では、彼は殉職だというふうに、思います。ほんとうにいいヤツでした」
 
「彼はプロレスに殉職した」、「いいヤツだった」という古舘節が私の脳裏を浮遊し続けた…。

 

橋本真也の早すぎる死から今年(2018年)で13年が経った。

橋本真也は死してもまだ生きている。
彼の存在を知らないプロレスファンだってたくさんいる。
だからこそ、2018年のプロレス界や世の中に私はこう問いたい。
 
「橋本真也とは何だったのか?」
 
破壊王と呼ばれた一人のプロレスラーの立身出世物語。
傷だらけの履歴書を読み解くと、破壊王の真実が見えてくる。
"激白"する壮絶な生き様が爆発する魂のロードムービー、それでは橋本真也のレスラー人生を追うことにしよう。
 
橋本真也は1965年7月3日岐阜県土岐市に生まれた。父は寿司職人で、自分の店を出すものの、うまくいかず、借金を重ねやがて失踪した。父がいないことを彼は小学生に入った時に気がついたという。母は居酒屋を経営していた。だから仕事で忙しい母の代わりに彼の面倒を見たのが、祖父と祖母だった。元々は弱虫だったが、小学校に入学する頃にはガキ大将となり、よく遊びよく喧嘩をしていた。運動は得意で勉強は苦手で、まさしくドラえもんのジャイアンのような存在だった。

 

橋本は小学生低学年の頃に格闘技に興味を持つ。漫画「空手バカ一代」を読んで、空手を習うようになる。道場に通うのではなく、極真空手を習っていた先輩に神社で稽古をつけてもらったという。プロレスに出会ったのもこの頃で、アントニオ猪木の異種格闘技戦やジャイアント馬場やジャンボ鶴田のスケールにでかいプロレスに魅了された。中学生になると柔道部に入り、さらに格闘技に傾倒していった橋本。空手への想いを抱きながら、県大会で活躍していき、二段を取得する。柔道特待生となり学費が免除され高校に進学すると、購買部で働きながら学校に通った。柔道は毎日4長時間の練習に励んだ。

 

だが、高校一年の終わり、母が脳溢血で倒れこの世を去った。これがきっかけで何のために柔道を続けるべきなのか分からなくなった。精神的にも追い込まれ、逃れるように柔道を辞め喧嘩に明け暮れた。気に入らないヤツはぶん殴っていた。ただ大義名分のない喧嘩だけはしたくなかった。そして、喧嘩に柔道技を持ち込むことは嫌だった。その後、高校3年生になり、柔道部に復帰するものの離れていたブランクの大きさがあり、後輩にも敗れていた。

 

進路はどうするのかが問われる時期になり、橋本は次第にプロレスラーになることを考えるようになる。元々小学校の文集で尊敬する人に「アントニオ猪木」と書いた彼は新日本プロレスに熱狂する。初代タイガーマスクが躍動し、長州力と藤波辰巳の名勝負数え歌、はぐれ国際軍団の暗躍、前田日明の凱旋、そしてカリスマ猪木…。意を決した橋本は先生と祖母に「プロレスラーになる」という強い想いを伝えた。柔道部の先生からの伝手をたどり、猪木の後援会長をしている人物からの紹介で新日本の入門テストを受けることになった。そして見事に合格したのである。

 

高校を卒業し、上京することになった橋本。祖母や先生に挨拶すると、ワンワン泣いた。寂しかったし、恐怖もあったのだろう。だが、それ以上に祖母や先生に感謝の気持ちが強くなったのかもしれない。

 
1984年4月21日、橋本は新日本に入門する。同期は後に闘魂三銃士として切磋琢磨していく武藤敬司、蝶野正洋がいた。また15歳という若さで入門した船木優治(現・誠勝)や橋本と同学年の野上彰(現・AKIRA)。前年に初代タイガーマスクが引退したこともあり、未来に投資するために有望な新人達が集結した年だった。
 
練習初日、みんなで一斉にスクワットをすることになった。武藤も蝶野、船木ができない、野上も回数がこなせない中で橋本は足腰には自信があった。なんとスクワット500回をクリアした。だがスパーリングはなかなか苦戦する。自分より小さい先輩の畑浩和からテイクダウンを奪い押さえ込むも、下からアキレス腱固めを極められ絶叫してしまう。同期で柔道有段者・武藤にもスパーリングでは何度も一本を取られた。悔しい思いをした橋本はいつか見返してやると心の中で誓った。ちなみに橋本は全盛期の1990年代になると関節技のスキルは新日本ではトップ3にあげられるほど上達していたという。
 
新弟子時代の橋本を弟のように可愛がったのが高田伸彦(現・延彦)。高田は橋本を「宙太(漫画「巨人の星」の伴宙太)」と呼んで橋本を一緒に食事に連れていくほどだった。ちなみに高田は第一次UWF移籍の際に、橋本を誘っていた。悩んだ橋本は高田の誘いに乗らなかった。
 
「自分は高田さんと違ってデビューしていません。新日本にまで何も恩返ししていません。だからUWFには行けません」
 
UWFからの誘いを絶った橋本は1984年9月1日東京・練馬区南部球場特設リング大会の後藤達俊戦でデビュー。試合のことはほとんど覚えていない。何がなんだかわからないうちに試合が終わり、敗れた。仕掛けた技は柔道技とストンピングのみだった。新日本では1984年9月に長州力率いる維新軍が離脱し、団体は窮地に立たされた。だがそんなことはデビュー直後の橋本には関係ない。とにかくプロレスキャリアを積むしかなかった。
 
橋本は何かと注目される存在だった。自身が憧れた前田日明の若手時代を彷彿とさせる「クラッシャー」ぶりを発揮、ちょくちょく対戦相手をケガをさせていた。また前田の得意ムーブであるフライング・ニールキック、スロイダー(フロント・スープレックス)、ミドルキックを披露している。前田のように妥協なきファイトを目指した。だが、前座で経験を積むに連れて、彼はあることに気がつく。
 
「人を真似しているうちは絶対に上には上がれない。自分にしかできないオリジナリティーが必要なのだ」
 
若手時代にその境地に立つことができたのだから、やはり彼はタダ者ではない。同期の中で真っ先に出世していったのは武藤だった。1985年にアメリカ遠征に旅立ち、一年間の武者修行を経て、1986年10月に「スペース・ローンウルフ」というニューヒーローとして凱旋する。橋本は先を越された気がして悔しかった。ただそれを顔には出さなかった。いつか追い越せばいい、今はその時を待つという心境だったという。
 
1987年、第三回ヤングライオン杯を準優勝を果たした橋本は同年10月にカナダ遠征に旅立つ。現地プロモーターからの妖精でモンゴル人レスラー「ハシフ・カーン」に変身する。しかし途中で試合で干されるようになった。対戦相手を壊したからだとも言われているが、実際はカジノに夢中になり過ぎて試合をすっ飛ばしてしまい、罰で組まれなくなったのが真相だという。
 
カナダは景色や自然が綺麗で最高だった。でも自業自得だが試合はあまり組まれない日々が続く。そして彼のレスラー人生に欠かせない技DDTもこのカナダで出会った。スティーブ・デサルボというレスラーがまだ使い手が少なかったDDTを使っていたのを見て「この技を俺の技にしたい」と思い、頭の中でイメージトレーニングをし、凱旋後に日本で使うことを決めていた。橋本はこのDDTを自身の代名詞として育て上げ、その後ジャンピングDDT、リバースDDT,フィッシャーマンDDT(フィッシャーマン・バスター)、垂直落下式DDT(垂直落下式ブレーンバスター)とバリエーションを増やしていく。
 
そんな1988年6月。橋本に一本の電話がかかった。猪木からである。
 
「ロサンゼルスに来れるか?」
 
橋本は迷わずにアメリカ・ロサンゼルスに飛んだ。トレーニングする猪木のスパーリングパートナーに指名されたのだ。猪木からはこう言われた。
 
「お前、前田日明とやれるか?」
 
橋本は即答する。
 
「はい!」
 
当時前田はプロレス界の風雲児。1987年に長州力顔面蹴撃事件で新日本を追放され、第二次UWFを旗揚げし、何かと注目される存在だった。もし、前田に新日本から刺客を送るという事態になった時に生きのいい若手を使いたいというアイデアが猪木の脳裏には若干あったのだろうし、常在戦場という心構えを持たせるためにこのような発言を猪木は行った可能性もある。橋本は師匠・猪木のためなら、憧れの前田を倒すという覚悟は決めていた。ただし、橋本VS前田の夢対決は実現することはなかった。
 
ある日、猪木は橋本にこう言った。
 
「蝶野と武藤を呼べよ」
 
当時、橋本は試合に干されていたので時間はあった。蝶野はアメリカ遠征中だったがなかなか苦戦していた。武藤はプエルトリコで活躍していた。橋本は「これはビッグチャンスになる」と考え、蝶野とニューヨークで合流して、プエルトリコにいる武藤に会いに行った。橋本は猪木から自身名義のアメックスのゴールドカードを渡されていた。そこで橋本は何と、蝶野と武藤だけではなく、プエルトリコのレスラー達をみんな集めて、飯を奢るという大胆な行動をするのだった。「猪木の奢りだ」と」いう言葉と橋本による「アントニオ猪木」のサインと共に…。こうして一時代を創った伝説のユニット「闘魂三銃士」はこのプエルトリコで、カードの大盤振る舞いによって誕生したのである。
 
1988年7月29日有明コロシアム大会で闘魂三銃士は一夜限り凱旋して、藤波辰巳&木村健吾&越中詩郎と対戦した。あの日、生きのいい若武者達は雨天の有明で弾けた。プエルトリコで髪切りマッチに敗れた武藤は五分刈りで髭面という荒々しい姿に変貌し、アメリカではヒールとして活動していた蝶野はテクニックとラフファイトで本領発揮する。そして、橋本はスター藤波に喧嘩を仕掛けた。怖いもの知らずで傍若無人だった三人。だが、この三人に新日本は団体の未来を託したのである。
 
その後、橋本は日本と海外を行ったり来たりすることになる。日本では藤波、蝶野と組んで6人タッグリーグ戦に出場するも納得で切る結果と内容を残すことはできなかった。1989年1月にアメリカ・テネシーに転戦することになった橋本は笹崎伸司とコンビを結成し、ショーグン・マサムネというリングネームでヒールとして活動する。
 
そんな橋本は日本一時帰国中に大仕事をやってのけた。
1989年4月24日の東京ドーム。日本プロレス界初のドーム大会となったこの日、目玉企画「闘強導夢杯~IWGPヘビー級王座決定トーナメント~」にエントリーした橋本は一回戦で優勝候補・長州力と対戦した。「ただで終わりたくない」という一念を持ってリングに上がった彼は長州のサソリ固めを切り返してのエビ固めで大金星を上げた。準決勝ではソ連のビクトル・ザンギエフを相手に好勝負を展開、最後はなんと足4の字固めで勝利を収めた。決勝では外国人エースのビッグバン・ベイダーと対戦。肉体と肉体の真っ向勝負の末、壮絶に散った。だが、橋本は力を出し切ったことに満足していた。
 
1989年7月に橋本は日本と海外の行き来生活から日本定着。183cm 135kgの巨体、豪快に対戦相手を叩き潰すスタイルから「破壊王」と呼ばれるようになる。代名詞となったDDTや柔道技の三角絞め、爆殺シューターという異名を持つミドルキック、ローキック、ハイキック、フライング・ニールキックといった人間凶器ともいえる強烈な蹴り技で頭角を現す。ベイダー、クラッシャー・バンバン・ビガロ、スティーブ・ウィリアムス、スコット・ノートンといった外国人モンスターを立ち向かう特攻隊長として彼は無鉄砲にぶち当たっていった。ちなみに橋本はベイダーとの抗争で横殴りラリアットを首筋に食らい、首と肩に爆弾を抱えるようになったという。
 
1989年9月20日大阪城ホール大会で橋本はマサ斎藤と組んで長州力&飯塚高史が保持するIWGPタッグ王座に挑戦し激闘の末、橋本がDDTで飯塚を破り見事に王座を獲得する。これがレスラー人生初の戴冠、海外遠征時に獲得できなかったチャンピオンベルトを巻いたのである。
 
そうこうしている内に同年10月に蝶野が海外遠征から凱旋。1990年4月にアメリカでスーパースターとなった武藤が凱旋する。闘魂三銃士がいよいよ、日本で本格始動していく。だが、橋本はこんな大切な時期に長年付き合うことになるヒザとの怪我に遭遇する。きっかけは1990年8月6日後楽園ホール大会での越中詩郎戦。越中にエプロンに右足をぶつけられた時、変な音がした。そこからヒザへの違和感を抱える。そこからだ。ビガロを払い腰を投げようとしてヒザが浮いた感覚に陥り、ロープに飛んだ時にヒザがガクッときた。それでも橋本はリングに上がるも、アマチュアボクシング・ヨーロッパヘビー級優勝経験を持つトニー・ホームとの異種格闘技戦で連敗、長期欠場に追い込まれる。
 
失意の橋本が向かったのは中国だった。ヒザへの針治療を受けたが、これが逆効果。神経に誤って針が刺さってしまい、足が動かなくなってしまう。だが一方で少林寺拳法特訓は収穫だった。北京大学院に特別留学生として一か月入り、現役王者からマンツーマンの指導を受けた。中国の地で得た最大の収穫は水面蹴りである。道場の先生からボクサー対策して教わったのが、回転しながら足を刈る水面蹴りだった。日々、垂直に立てた細長い棒に回転して蹴り練習を続けることで当て感をつかみ、この技を習得する。
 
アメリカ・ミネアポリスのレイガンズ道場で最終調整してから1991年5月31日大阪城ホール大会でキックボクサーのランディ・ソントンとの異種格闘技戦で復帰し、2R腕十字で勝利する。同年6月12日ボクサー・ラムジン・シビエフを破った。ちなみにヒザのケガは名古屋の先生に出会い整体治療が一時的に回復していた。
 
1991年8月、真夏の最強決定戦「G1CLIMAX」の第一回大会が開幕する。長州、藤波、武藤、蝶野、橋本、ベイダー、ビガロ、ノートンの優勝候補しかいない最高メンバーの8人で開催されたこの大会の主役となったのが三銃士だった。Aブロック1位となったのは武藤、Bブロック1位となったのは橋本と蝶野が同点となり代表決定戦で対戦することになった。橋本はBブロック代表決定戦で蝶野に敗れた。決勝戦で武藤と蝶野は歴史に残る名勝負を残した。蝶野の優勝で歓喜の座布団が舞う中で、リング上にはセコンドにいた橋本も含めた三銃士が陣取っていた。新日本に三銃士の時代が到来したのである。
 
しかし、ここで橋本が勢いが増すかというとそうでもない。なかなか勢いを持続できない、本人曰く「スランプ」になった。確か1992年6月2日広島サンプラザで後輩の飯塚高史と対戦したのだが、どこか覇気を感じない橋本の姿にテレビ解説のマサ斎藤からは辛辣な発言が飛び交った。強さを売りにしてきた橋本はレスラーとしての幅が他のレスラーよりは狭い。だから少しでも弱さがリングに投影されてしまった時、他のレスラーよりも弱々しく見えてしまうのだ。橋本の試合ほど、自身の精神的内面が露骨に見えるものはない。気分がいい時や悪い時、モヤモヤしている時などの細かい心境が彼の場合は如実に分かってしまうのだ。
 
さらに1992年9月にヒザも悪化してしまう。練習終わりにイスに座って立てなくなってしまう。彼のヒザは半月板が飛び出て、座るとヒザ関節が開いていた。もうこれは手術するしかない。1992年12月にシリーズを全休してヒザを手術することを決意する。
 
ひざの手術から一か月後の1993年1月4日東京ドーム大会で復帰した橋本は一念発起する。彼の視界には最強の標的が現れる。
WAR大将・天龍源一郎。
橋本はかつて週刊プロレスのインタビューで政治関係を無視して「ジャンボ鶴田、前田日明、天龍源一郎と闘いたい」と発言し、会社から大目玉を食らったことがあるが、彼にとってフライングしたくなるほど対戦したいと思えるほどの魅力が天龍にはあった。
 
1993年2月3日札幌中島体育センター大会で6人タッグで対戦した橋本と天龍。橋本の目には天龍しか見えなかった。そして久しぶりに気合に満ちた橋本は大暴れ、試合後には天龍の控室まで走って追いかけるほどだった。橋本は決めた。
 
「何が何でも天龍と一騎打ちをやる!」
 
そこで橋本は新日本のシリーズを欠場し、WARのシリーズに自費でやってきて、「俺とやれ」と何度も迫った。現場監督の長州からは「これでダメだったら、終わりだぞ」と言われていた。後がなかった。やるしかなかった。強引に割り込んで、WAR3月シリーズに参戦した橋本。ヨーロッパ遠征から凱旋直後の後輩…小原道由を伴い、悲願の天龍戦実現のために、阿修羅・原、石川敬士、冬木弘道、北原光騎といった天龍を支える強靭な壁が立ちはだかる。まるで明日がないかのような真っ向勝負を続けた。そこに充実感があった。だから初遭遇から4か月後の1993年6月17日WAR日本武道館大会で実現した天龍との一騎打ちは名勝負となった。試合はパワーボムで敗れたものの、橋本は見事に復活したのである。勝ち負けではなく、自分らしい試合ができたという想いが強かった。そして自分のすべてを受け止めてくれた天龍に感謝していた。だから天龍戦後の行われた食事会はまるで祝勝会のように盛り上がった。後年、橋本は天龍について「俺もあんな凄い親父になりたい」と語っている。
 
1993年9月20日愛知県体育館で橋本はグレート・ムタを破り、悲願のIWGPヘビー級王座を奪取する。これまで幾度も挑戦して阻まれてきた至宝をようやく手にした。実は試合前にこんなエピソードがあった。この日がシリーズ開幕戦だったため、東京から名古屋まで新幹線で移動していた道中、ムタの"代理人"の武藤と坂口征二社長が中心となって冗談話で盛り上がっていた。すると武藤が「若気の至り」というつもりが「若ハゲのかたまり」と間違った。それを聞いた橋本が「それは若気の至りでしょ?」と突っ込むと皆、笑いを堪えるのに必死だった。これからタイトル戦なのに、妙に気負わずにリラックスした状態で試合に挑み見事王座奪取に繋がったというわけである。
 
橋本はIWGP王者として武藤敬司、パワー・ウォリアー(佐々木健介)、蝶野正洋、スコット・ノートン相手に4度の防衛に成功、また過去シングルマッチ2度の敗北を喫した天龍相手にリベンジを果たした。一度は1994年4月4日の広島サンプラザ大会で藤波辰爾に敗れて王座転落するも、5月1日福岡ドーム大会でのリマッチで公約通り10分以内で勝利し、王座奪回。ここから橋本はIWGP王者としてその強さを見せつけた。藤原喜明、長州力、パワー・ウォリアー、蝶野正洋、馳浩、佐々木健介、、天山広吉、ロード・スティーブン・リーガル(ウィリアム・リーガル)…。錚々たる強豪相手に防衛を果たし、当時最高防衛記録であるV9(9度目の防衛)を達成した。その活躍が認められ、1994年東スポプロレス大賞MVPを受賞し、破壊王は日本プロレス界の頂点に立ったのである。
 
橋本はIWGP王者になってから試合運びや風格、立ち振る舞いなど、プロレスラーして大いに成長した。以前なら一度ブチ切れると試合にならないほど収集がつかなくなる場合もあったが、タイトル戦を乗り越え防衛を重ねることで、自己コントロール能力が向上。また相手の良さを引き出した上で強さを誇示するという破壊王流の「風車の理論」ともいえるスタイルも確立した。橋本には辛口のテレビ解説者・マサ斎藤も防衛を続ける橋本の試合を見て、「王者らしい試合をするようになった」と絶賛している。だからこそ橋本は「王者がどれだけ大変か…それは王者になってみないと分かるはずがない!」と断言している。
 
ここで橋本はIWGP王者としてややフライング気味の主張をするようになる。海外に出て防衛戦を行いたい、IWGP王座にランキング制を導入してほしい…。だがその野望を叶うことはなかった。V10がかかった1995年5月3日福岡ドーム大会で武藤敬司に敗れて王座転落。だがこの時の活躍があったから彼は猪木も長州も藤波も名乗れなかった「ミスターIWGP」という異名を与えられた。それが橋本への最大級の評価ではないだろうか。
 
IWGP王座転落後、橋本は平田淳嗣(スーパー・ストロング・マシン)と重量級コンビを結成し、1995年7月13日にスコット・ノートン&マイク・イーノスとのIWGPタッグ王座決定戦を制し、王座を獲得する。平田とのコンビは橋本にとっての生涯におけるベストタッグだった。IWGP王者となってからプロレスラーとして成長した橋本はタッグ王者になるとさらに選手としての幅が広がった。一歩引くことができてどんな相手にも対応し、大物食いもできる実力者・平田がパートナーだったのも大きかった。
 
IWGP王座は1996年1月4日東京ドーム大会で武藤からUWFインターナショナルの高田延彦に移動する。至宝の外部流出に会場は騒然となる中で、王者・高田はマイクでかつての弟分・橋本を挑発する。橋本も黙ってはいない。リングに上がってきて高田とにらみ合い。そして、「よく武藤に勝った。防衛戦は俺一人で十分だ」と宣戦布告する。それから4か月後の1996年4月29日東京ドーム大会で橋本は高田と歴史に残る名勝負を残し、3度目のIWGPヘビー級王座獲得に成功する。前年から多用するようになったケサ斬りチョップでペースをつかみ、高田相手に垂直落下式DDTで叩きつけてからの三角絞めという怒涛のフルコースで高田を沈めた。試合後、高田に大きく頭を下げる橋本の姿がとても印象的だった。
 
橋本は小島聡、リック・フレアー、長州力、山崎一夫と防衛を重ねていった。その一方で、1996年のG1CLIMAXで古傷・右ヒザを負傷し、周囲から欠場を勧められても試合に出続けた。公式戦も一つの不戦敗を除いては全敗で終わった。後輩の天山に敗れ、健介にボロ負けを喫した。それでも橋本は公式戦をなんとか乗り切れたことに満足していた。橋本は勝っても負けても豪快。だからこの男のプロレスに陰湿さが微塵もないのだ。
 
橋本は高田とのIWGP戦から黒のロングガウンを着て入場するようになる。ガウンの背中には「闘魂伝承」という文字が描かれ、尊敬する戦国武将・織田信長の名言「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」がさりげなく刺繍されている。人生長く生きるより、太く短く生きる。その中で天下を獲れたらそれでいい。そんな野望がこのガウンには込められている。
 
新日本における強さの象徴となった橋本に、人生を狂わせる宿敵が現れる。
その男の名はバルセロナ五輪柔道95kg超級銀メダリスト 柔道王・小川直也。
 
1997年4月12日東京ドーム大会。元々は橋本が保持するIWGP王座に初代無差別級キング・オブ・パンクラシストでUFCのスーパースターとなったケン・シャムロックが挑戦する予定だったが、シャムロックがWWE(当時WWF)と契約したため、代打出場したのがプロレスデビューが内定していた小川だった。橋本VS小川は異種格闘技戦として組まれた。そして新日本は金の卵・小川を猪木に預け、団体を脅かすインベーダーとして登場させようとした。師匠・猪木が柔道家のサポートをする。橋本にはどうしても許せなかった。「猪木さんは俺の味方、プロレスの味方じゃないのかよ!」という一念が脳裏を巡る。また小川参戦で新聞や一般メディアで取り上げられたことで、会社内部からも小川シンパが生まれる状況。何もかも気に入らない。精神的も含めてバッドコンディションで試合当日を迎えた。
 
橋本は得意の打撃を駆使して追い込む、小川は払い腰やすくい投げといった柔道技で対抗するも試合は橋本ペース。だが橋本のDDT狙いをSTO(スペース・トルネード・オガワ/変型大外刈り)で形勢逆転、そこから橋本の背後に忍び込んで小川は裸絞め(スリーパーホールド)で絞め上がる。意識が遠のき、橋本は屈辱の失神KO負けを喫した。プロレスデビュー戦の男に王者が負けた、プロレスが柔道に負けたという複数の苦杯をなめることになった橋本は試合後、3月に猪木から贈呈されたデザインが一新した二代目IWGPベルトを取り出し、「このベルトとレスラー生命をかける」と宣言する。
 
復習に燃える橋本は4月シリーズを欠場し、特訓に励むことになる。だが彼は一部のファンから批判の的となった。愛車ベンツは落書きされ、いたずら電話が相次ぎ、「デブ」や「辞めろ」と自宅にまで罵声を浴びせる者もいたという。ノイローゼ状態となった彼は孤独だった。空手家・黒澤浩樹がサポートして、得意の蹴りの制度を上げ、小川対策のために蹴りを入れるタイミングを研究し、新技「ツバメ返し」(ローリングケサ斬りチョップ)を開発する。
 
こうして迎えたリベンジマッチ・1997年5月3日大阪ドーム。橋本はIWGP戦でその強さを発揮し、顔面へのローキックで失神KO勝ちを果たし、リベンジに成功した。だが、どこか満足できない橋本がいた。やっぱり最初の対戦で負けたことが引っかかっていたのだ。もっとプロレスラーらしい勝ち方をしたかったという想いが心中にあったのだ。
 
1997年8月31日横浜アリーナ大会で佐々木健介に敗れIWGP王座から転落した橋本は異種格闘技戦路線に進む。元K-1ファイター相手に次々勝利を収める。だが相手のレベルが一流とは言い難いものだったので、不満だけが残った。新日本は何のために俺を格闘技戦に向かわせたのか。それが疑問だった。
新日本時代の橋本の心境を拾うと、いつも心に反骨心を抱き、会社に不満を抱いたりする期間が多い。その一方で人間としての懐の深さと豪快さも感じさせるのである。だがこれが妙に破壊王に男の色気と凄みを漂わせたのではないだろうか。
 
そんな中で橋本はようやくG!1CLIMAXを制する時が来た。1998年のG1で橋本は決勝で山崎一夫を破り、ようやく夏男になることができた。実はトーナメント1回戦の後藤達俊戦で足を負傷し、爆弾を抱えながら試合が続き、決勝の山崎戦では足を徹底的に攻められた。それでも彼はギブアップする気はなかった。ここで負けたら、もうG1を優勝できるチャンスはないと追い込んでいたからである。その甲斐があって彼はG1王者になったのだ。
 
自分の我ままや構想を会社に提案していき実現していきたいという想いが強くなる橋本。実は猪木・長州に続いて現場の舵取り人になりたいという野望もあった。そのために彼は納得いかないマッチメイクでも受け入れてきた。だがそんな想いとは裏腹に何のテーマ性のないマッチメイクが続いた。そんな中で「IWGPヘビー級挑戦者決定トーナメント」にエントリーされた際に、彼は遂に「これじゃG1と同じ。勝手にエントリーされたようだけどバカバカしい。俺は出ない。壊してしまうよ」と体制批判に受け取れるコメントをする。反体制ではない、本体サイドからのこの発言に新日本は重く受け止め、1999年2月シリーズから橋本に無期限出場停止処分を下したのだ。現場監督・長州力が橋本の発言に激怒したからだ。無期限出場停止処分を受け、さらに新日本へ不満を抱くようになる。だが辞めようとは思わなかった。新日本を一番愛しているのは俺だという自負があったからだ。
 
1999年1月4日・東京ドーム大会。橋本はUFO・小川直也との三度目の対決を迎えた。これが後に「1.4事変」と呼ばれる大事件に発展する。オープンフィンガーグローブを着用し、完全に目がイッちゃっている小川にこの試合でプロレスをするつもりはなかった。猪木からの指令か、佐山聡からの指令か、小川自身の暴走か、真相はいまだに闇の中。だがこの試合はプロレスのリングでプロレスではない"セメントマッチ"が行われたという事は確かである。試合はノーコンテストに終わるが、事実上橋本は小川に潰されたのである。この時、橋本は小川のシュートな仕掛けに乗らず、暴走することなく、どうにかしてプロレスとして成立させようとしていた。プロレスラーとして誇りを守ったともいえるし、逆に一方的に潰されてプロレスを失墜させたともいえるその姿。今見ると切ない、悲しい、そして涙ぐましい。もし、俺が小川のようなことをしたら、どうなったと思う。俺は猪木から潰されているんだ。嵌められんだ。自暴自棄になりそうだった。日本刀を持って小川の事務所に殴りこもうとも思った。新日本とUFOの政治に巻き込まれた俺はただの犠牲者かよ。小川から電話で謝罪を受けたが、関係ない。とてつもない深い傷を負ってしまった橋本はリングから消えた。
 
「アントニオ猪木は死んだほうがいい」と言い放つほど猪木への憎しみを抱く橋本は欠場し、沈黙を続けた。一時は全日本プロレス・1999年5月1日東京ドーム大会での川田利明戦で復帰するという話も上がった。この時期に闘魂三銃士と全日本の四天王とのコネクションができており、その中で橋本に純粋にプロレスをしてもらうため、夢対決を実現させるために川田戦が浮上した。だが、当時全日本のオーナー・馬場元子氏の反対によって実現しなかった。
 
橋本は1999年6月8日・日本武道館大会で天龍源一郎戦で復帰する。欠場期間中に彼はコンディションを整え、体重を119kgにまで減量した。だが試合の二日前にオーバーワークによって右肩を脱臼してしまう。さらに試合前に現場の副責任者・越中詩郎から選手会長時代の不透明な経費問題を追及して、ブチ切れする。肉体的にも精神的にも最悪な状態で迎えた復帰戦に敗れた橋本は自分の無力さにただ悔しかった。
 
二度と組まれたかと思われた橋本VS小川。だが、新日本の体制がUFOと絶縁を宣言していた坂口征二から猪木との交流も視野に入れていた藤波辰爾に社長交代したことにより、因縁対決が組まれた。だが橋本は小川にプロレスでボコボコにされ、惨敗を喫する。試合後、橋本は猪木に「ありがとうございます」と叫んで倒れていった。「橋本だらしないぞ、何言ってんだ馬鹿野郎」とファンの野次を浴びながら…。
 
小川に人生を狂わされた橋本。橋本戦でスターダムを歩む小川。明暗がくっきり分かれた。だが当時の新日本にとって橋本VS小川は刺激と賛否が強すぎるが客を呼べる黄金カードだったのだ。そんな黄金カードに運命を託したのがなんと新日本を放映するテレビ朝日だった。実は2000年4月7日東京ドーム大会での2時間のゴールデンタイム特番が決まっていた。ここで視聴率を稼がないと、プロレスがゴールデンタイムが流れないと考えていた制作サイドは、バラエティー番組で活躍する放送作家を加え目玉企画を思案していた。ここで浮かんできたのが「橋本真也34歳、小川直也に負けたら即引退スペシャル」だった。制作サイドの意向を橋本本人に伝えに行ったのが当時メイン実況アナの辻よしなりだった。辻から「橋本、この試合で負けたら引退してくれないか。こっちも背水の陣なんだ」と説得した。橋本は無言だった。だが制作サイドの気持ちに応えるために事情を一人で抱え込んで、「小川直也に負けたら俺は引退してやる」と公言するようになった。この男、やっぱり器量がある。そして、男気がある。
 
こうして迎えた試合当日。こういう場合はプロレス的にいうと橋本は小川に勝つのが常道。だが試合はなんと小川がSTO6連発で勝ってしまった。実況の辻アナが涙を流しながら「橋本、立ってくれ!」と叫ぶ。セコンド陣も泣いていた。今は亡き福田雅一やKENSO(鈴木健三)が号泣する。本当に橋本は引退に追い込まれてしまった。
 
引退に追い込んだのがテレビ朝日なら、復帰に導いたのもテレビ朝日だった。番組で取り上げられたプロレスを愛する兄弟(当時中学2年生と小学6年生)による復帰懇願運動の輪が広がっていた。橋本復帰を願うファン達から全国から100万を超える折り鶴が集まった。これはテレビ局サイドには橋本には視聴率のために犠牲にさせてしまったという贖罪意識があったのかもしれない。新日本から復帰要請があっても固辞していた橋本だったが、大量の折り鶴がスタジオ全面に広がっている風景を目のあたりにすると心境が変わった。みるみる感激のあまりに涙がにじむ。そして復帰懇願運動の中心となった二人の兄弟を強く抱きしめた。橋本は引退を撤回し復帰を決意した。
 
2000年10月9日東京ドーム大会で藤波辰爾戦で復帰して勝利を収めた橋本は試合後、まさかの"独立"を宣言する。新日本内に別組織「新日本プロレスリングZERO」を設立するも、現場監督・長州力の反対にあい、結果的に2000年11月に橋本は新日本から解雇された。その後、橋本は「ゼロワン」を旗揚げし、新日本の大谷晋二郎や高岩竜一が移籍する。実は橋本の偽装解雇ではないかとも一部では言われていて、新日本とのパイプは繋がっていた。だからゼロワン旗揚げ戦で新日本の永田裕志がゲスト参戦したりしていた。また興業収益は新日本に入り、グッズの売上と興業収益以外の売上はゼロワンに入っていた。ゼロワンは元々は新日本内の独立グループだった。
 
2001年3月2日ゼロワンは両国国技館大会でプロレス史上最高の旗揚げ戦を行う。メインイベントで橋本&永田裕志VS三沢光晴&秋山準(プロレスリング・ノア)という事実上の闘魂VS王道夢対決が実現する。試合後に小川直也、藤田和之も加わり、オールスターキャストで乱闘が繰り広げられた。橋本は旗揚げ戦の大成功に控室に戻る花道で笑みを浮かべていた。この大成功を機に橋本は新日本からの年俸契約(推定3000万円)を蹴り、腫れて新日本から離れていったのだ。
 
ゼロワンは橋本プロレスのおもちゃ箱のような団体だった。ストロングスタイルもあれば、お笑いプロレスもある。ハードコアもあれば、ジュニアヘビー級の空中戦もある。アメリカン・プロレスもある。格闘プロレスだってある。まさしく橋本真也が調理して詰め込む幕の内弁当のようなプロレスがゼロワンにはあった。そんなゼロワンに協力し、シリーズ参戦するようになったのが宿敵・小川直也だった。小川は橋本とOH砲を結成する。小川は「自分は一生、橋本さんを裏切れない」という想いがあった。それもそうだ。プロレスじゃないことを持ち込んだ相手を最終的に受け止め、飲み込み、小川を活かしたのは誰あろう、橋本だった。小川にとって橋本は恩人なのだ。
 
だが右肩を負傷したのをきっかけだった。次々と負の連鎖が橋本を襲う。経営不振、選手との対立、外国人選手の離脱、新イベント「ハッスル」への協力…。ここは一度リセットしなければいけない。橋本は2004年11月に団体を運営する有限会社ゼロ・ワンを活動停止する。団体を存続させたい大谷が中心となって新運営会社「ファースト・オン・ステージ」を設立。団体名をゼロワンMAXやプロレスリングZERO1と名前を変えながら、ゼロワンは存続している。
 
橋本真也は2005年7月11日に脳幹出血のため、天国へと旅立った。享年40歳。実は水面下で復帰に向けて始動してと言われているがそれは実現することはなかった。プロレス界の暴れん坊将軍は数多くの伝説と逸話と感動を残していった。
 
漫画「グラップラー刃牙」に登場する花山一族に伝わる言葉に 侠客立ち(おとこだち)がある。
 
五臓六腑を刻まれて
一歩も引かぬ 侠客立ち
とうに命は枯れ果てて
されど倒れぬ 侠客立ち
とうに命は枯れ果てて
男一代 侠客立ち
 
かつて「俺は俺らしい死に際を見せたい」と語っていた橋本は人間として、プロレスラーとして最初から最後まで「男としてどう生きるべきか」という信念の元に生きてきたと思うのだ。これこそ破壊王流の侠客立ちだった恥をかいても、泥にまみれても、真っ直ぐに太く短い生涯を全うした橋本はなぜか皆、愛していた。迷惑をかけれたことも、理不尽な目に遭ったとしても、その少年のような柔和な笑顔と器量で許された稀有な人物…それが橋本だった。
 
橋本真也は愛すべき烈闘生。命と魂の限りリングで生き様をぶつけてきた愛すべきトンパチはプロレス界における天上天下唯一無二の巨星となった。星になった破壊王は豪快に自由気ままにゲラゲラ笑ったり怒っているのだろう。
 
「破壊なくして想像なし。悪しき古きが滅せねば誕生なし、時代を開く勇者たれ」
 
橋本真也がゼロワン旗揚げ時に掲げた理念は破壊王流・侠客立ちの偉大なるパンチラインとなったのである。
 
 【参考文献】
・列闘生 傷だらけの履歴書 /武藤敬司 蝶野正洋 橋本真也/幻冬舎アウトロー文庫
・子殺し 猪木と新日本プロレスの10年戦争 金沢克彦/宝島社
・俺たちのプロレスvol.5/双葉社