青の恐怖
梅雨が終わり、夏休みはあと数日に迫った7月中旬。教室は茹だるような暑さである。しかし、この中に一人だけ、もう衣替えもとおに終わったというのに長袖を着た女生徒がいる。彼女は大橋美奈子。変人である。もちろん、長袖を着ているからではない。ほかのクラス、学年にも二三人はそんな生徒がいるものだ。それでは、何故彼女が変人かというと――彼女はとあるマニアなのだ。その表現さえも正確ではないかもしれない。しかし、彼女が「それ」を語る時の熱さと言ったら、それはもうフィギュアなりアイドルなりを語るオタクと引けを取らないはずだ。
「友紀、ちょっといい?」
「うん? どうしたの、改まっちゃって。ま、座りなよ」
生物の授業が終わるなり、友人は一目散に私の席まで駆けてきた。美奈子は、今までカエルの細胞分裂を見ていたのかと疑いたくなる爽やかな笑みで、しかし暑苦しい恰好である。
「髪を染めようと思うの」
「……はぁ?」
「だから、夏休みに髪を染めようと思って」
なんとなくだが、断言する。やはり彼女は生物の授業を受けてはいなかった。いや、確かに席に座ってはいたが、心ここにあらずだったに違いない。
「まさかとは思うけど……」
「もちろん、想像通り」
私はため息を吐かずにはいられなかった。
「これ以上問題児になるつもり?」
「夏休みだけだよ。だってこないだ先生に、次は停学だぞ、なんて脅されちゃったからね」
そうは言うものの、やはり美奈子は懲りていない様子だった。いくら温厚な先生でも、この恰好を見れば説教したくもなるだろう。何を隠そう美奈子は青いマニュキアを塗り、青いアイシャドウ、青いグロスをし――そう、青マニアなのである。つまり彼女はこの夏、髪を青色に染めるつもりでいるのだ。
「この世界すべてが青に染まればいいのに」
呟く彼女の顔は光悦に浸っていた。素晴らしい世界になる、と力説された。ふ、と想像してみる。
人間は青白い顔である。爪も青、メイクもすべて同様に。彼女がこの夏、染めるであろう色の髪を靡かせる。空も雲も海も砂浜も、すべて青。しかし、それでは区別がつかなくなってしまう。色の濃淡があるとはいえ、さすがに限界がある。いや、問題はそこではない。そんな世界になってしまったら、どこを探しても喜ぶのは彼女くらいだ。美奈子は、世界征服をするつもりか。なんと恐ろしい友人を持ったのだ、私は。
ぱちん。と目の前で突然、薄く伸びた青が弾けた。美奈子が噛んでいたフーセンガムだ。なんとも毒々しい色をしている。
「どう? 素敵でしょ。いつか実現させたいなぁ」
ガムの色素が彼女の舌にまでうつっている。
「正気の沙汰じゃないよ。だいたい、なんで青がそんなに好きなの?」
私にだって好きな色の一つや二つはある。しかし、ここまで執着するほどのものだろうか。たかが色だ。
「友紀。あんた、わかってない。青の素晴らしさを今まで一生懸命説いてきたのに、全然わかってないよ」
「……」
その後、青には気分を落ち着かせる効果があるだの、寒冷色だから長袖を着ていても涼しく見えるだとか、どうでもいい知識を吹き込まれた。ちなみにこの学校の指定であるブラウスは青色である。美奈子がこの高校に進学した理由はこの為だと考えられる。
夏の蒸し暑さと、美奈子の暑苦しさに、だれていた私を救うかのように授業開始のチャイムが鳴った。美奈子は小さく舌打ちをすると、渋々席に戻って行く。私は急いで次の授業の用意をする。ちょうど教科書を机に出したところに、担当の教師が入ってきた。
美奈子は窓際最前列の席で授業を受けている。しかし、クラスメイトの視線が黒板とノートの間を行き来している中、彼女だけは一点を見つめて動かない。きっと、いや絶対的に青に想いを馳せているに違いない。そしてこの授業が終わるなり、すぐさま私の席に駆けてきて、またもや語られるのだ。よっぽど青に染まった世界より恐ろしい。授業を聞かずに私もそんなことを考えていたのだった。