「最も大切なことは、誰に言われたかではなく何を言われたかだ」
人は完全ではない。
誰しも完全ではない。
ために多く間違いを犯す。
それは仕方のないこと。
それを指摘された時。
「君には言われたくない」と答えることははなはだよろしくない。
それを注意された時。
「君に何の権利があってそんなことを言うのだ」と返すことは言語道断だ。
たとえそれが年端いかない幼児であっても。
たとえそれが見知らぬ文学青年であっても。
たとえそれがその土地の管理人ではなくても。
たとえそれがその店舗の就労者ではなくても。
最も大切なことは、誰に言われたかではなく何を言われたかだ。
君の行為が問題なのだ。
誰が指摘したのかが問題なのではない。
指摘した人の履歴書によって君の態度は変わるのかね。
幼児ではなく警察官ならば。
文学青年ではなく腕っ節の強そうな大男ならば。
話を聞くというのであれば、君。君。君。
君は余りにも物事の本質を把握する能力に欠けていると、言わざるを得ない。
君は余りにも権威や示威に弱い人格の持ち主だと、言わざるを得ない。
言われた人によって話の内容が異なって聞こえるというのなら。
けれどもこれは、ただ単純に君が貧相で脆弱な人格を持ち合わせているというだけではない。
教育に根ざした問題なのだ。
先生の言うことは絶対。
親の言うことは絶対。
目上の言うことは絶対。
そして偉い人の言うことは絶対。
能力を測定した数値。
進学した学校の数値。
就職した企業の数値。
そして日々の収入の数値。
それらの偏重。
すなわち、絶対価値教育。
絶対価値教育を施された人は、本質よりも外郭を優先する。
必要なのは、相対価値教育。
とりまくあらゆるあまねく全てに価値を考えること。
そして相互扶助教育。
とりまくあらゆるあまねく全ての人と相互扶助の関係にあるということ。
他者を尊重するということ。
自分が尊重されるということ。
他者の言葉を大切にするということ。
自分の言葉が大切にされるということ。
相対価値教育なく、相互扶助教育ない国は。
回り始めた毒を抜くこともできず。
頽れるのみ。
聞け、老害。
頽れるのみ。