北山あさひのぷかぷかぷー

北山あさひのぷかぷかぷー

袋小路の抜け出し方

掲載情報(2024年)

◆「短歌研究」年1月号
 特集「ペア自歌合・豪華8組競選」

◆「短歌」1月号
 特集「新春146歌人大競詠」に「花時計」7首

◆「週刊読書人」1月19日号
 道立文学館の特別展「左川ちか 黒衣の明星」での
 文月悠光さんとの対談のもようが掲載されています。

◆朝日新聞2月4日朝刊「うたをよむ」
 エッセイ「雪と氷の歌」

◆「短歌研究」3月号
 「うるせえドライヤー」20首

◆「文藝春秋」4月号
 「凛」7首

◆「現代短歌新聞」4月号
 睦月都さん歌集『Dance with invisibles』書評

◆丸地卓也さん歌集『フイルム』
 栞「肩幅や背中について」

◆「歌壇」6月号
「春の市場」12首

◆「うた新聞」7月号
「ライムライト」 エッセイ「戦うための筋肉」

◆「現代短歌」9月号
アララギ特集 「幽霊 2024」20首
エッセイ「「ニューアララギ」が何なのかわからないまま書いています」

前回に引き続きまひる野6月号掲載の「新進特集 わたしの郷土・わたしの街」について書きます。

 

蚊の腹にゆれつつ飛べるわれの血のいま川境越えたあたりか

狩峰隆希「ミカエル」

 

蚊の姿のアップからぐい~っとズームアウトして川(と街)を見下ろす俯瞰の映像へ。そんな場面を想像した。『シン・ゴジラ』で自衛隊のヘリが攻撃に行くときもこんなカメラワークをしていたような気がする。長い、粘りのあるワンカット。緩急のある韻律が一首に流れる時間のスピードをコントロールしているように感じる。この夏、たくさんの血がゆらゆらと空を飛んでいるのだなあ。

狩峰さんの文章は「ふるさと」という言葉について、内藤明や石井大成、若山牧水の歌を通して思考している。

「一度宮崎を離れ、流れるまま戻ってきた自分が、宮崎の何かを語り、何かを背負う。そのことに今は強い躊躇いを感じる。」という箇所にはハッとさせられた。

 

 

壮年期はくるくるパーマの祖母の髪母切りたれば直毛と知る

久納美輝「仏滅だから」

 

「直毛と知る」のが誰なのか最初わからなかったんだけど、これは孫である主体からの視点なんだろうな。孫にとっては生まれたときからおばあちゃんは「壮年期」だったことを考えると。「くるくるパーマ」の姿しか知らないから「くるくるパーマ」の人としてしか認識していなかったおばあちゃんが、髪を短くしたときに直毛だったんだと気づく。わたしはその気づきよりも、お母さんはずっとそのことを知っていたんだなと思って、その二人の関係のほうにぐっとくる。

文章のほうは愛知淑徳大学からの短歌のルーツについて、島田修三と森井マスミの歌を引用しながら回想する。まひる野にとって名古屋っていうのはやっぱり特別な場所なんだな(ここで島田修三をもってくるのはちょっとずるいな~と思ったりもするけどね)。

 

 

雨に濡れずに第五校舎へ入る道を教えてもらう錆びた扉(と)を押す

滝本賢太郎「炎、熾せば」

 

遠そう、と思いました。初句の7音、三句の6音の間延びする感じとか、「第五校舎」の「五」のあたりが。こちらは距離の話だけど、「錆びた扉(と)」なんかには時間の長さのほうも感じる。扉のこちら側は雨、ならば一首の後に響くのは痛いくらいの静けさだろう。

文章は東京の馬込に住んでいた三島由紀夫と、その死を詠んだ村上一郎の、熱烈ともいえる歌について。毒を以て毒を制す、といったら変かもしれないけど、滝本さんだから書ける文章だなと思う。

 

 

また朝になるって信じられなくてプラネタリウムに怯む手のひら

塚田千束「みんな狩人」

 

人工的に映し出される圧倒的な星とともに、圧倒的な闇、圧倒的な孤独、圧倒的な現実、というものをイメージした。プラネタリウムは夜の星空を見せたあとは「東の空から朝日が昇ってきました」みたいなセリフを合図に朝になる、必ず。そこで「手のひら」が「怯む」のはなぜだろう。もしかしたらその圧倒的な夜に、不思議な心地よさがあることを主体は知っているからだろうか。

旭川にお住いの塚田さんの文章は作歌・三浦綾子の歌について。土地の風土と作家性について、北海道の冬のイメージ豊かに書いています。

 

 

うつせみの、と枕詞をつけてする母校の話 密かな眠り

藤原奏「廃校」

 

「うつせみの」は人、世、命などにかかる枕詞。虚しさやはかなさを表現する言葉が、この歌では少子化とか過疎化で廃校になってしまった「母校」にかかっている。からっぽの校舎と「空蝉」もかかっているんだと思う。「密かな眠り」をどう捉えるかが微妙ですが、抜け殻になった校舎が蝉の抜け殻ようにそっと眠っているということなのかなあ。理屈っぽすぎるかな。

 

文章は岡山の大学で、短歌会の仲間と過ごした図書館の会議室の思い出について。無機質な会議室がかけがえのない場所ってすごく素敵だと思った。岡山はいつか行ってみたい場所のひとつ。

 

 

焼きそばはひっくり返って右を向く サラリーマンがキスをしている

𠮷岡優里「さくらのあそび」

 

お花見の時期の歌。「焼きそばはひっくり返って右を向く」にびっくりしたけど、焼きそばって右を向いたり左を向いたりするんだっけ?しかもひっくり返ったあとに?考えてみると確かにいろんな方向を向いているような……(ヘラによってだけど)。

面白いのは「右を向く」で視点も右にパーンされるところ。主体目線で焼きそばを見ていたはずなのに、右を向いてその先にサラリーマンたちを見ているのは焼きそばの目線のように錯覚してしまう。しかも「サラリーマンがキスをしている」という書き方、わたしはサラリーマン同士がキスしているように見える。酔っ払いを想像する。花見の夜の、楽しさと混乱がキッチュに描かれていて好きな歌です。

文章は九州の中間市という街出身の小田宅子という歌人について。江戸後期に活躍した人で、田辺聖子によって小説にもなってるそうです。小原さんや伊藤さんの文章もだけど、調査している感じがあるとわくわする。彼女の歌が一首でも読めたらよかったな。

 

 

以上、拙い評でしたがみなさんのお役に立てればさいわいです。

 

忙しくなる前のこの時間を有効活用して、まひる野6月号掲載「新進特集 わたしの郷土・わたしの街」の作品と文章について書いてみようと思います。

 

不協和音かなで娘の抽斗よパイプオルガンのごと開けっ放し

浅井美也子「群青の兵」

 

絶賛反抗期中の子どもをビシビシ歌にしていく浅井さん。

音や感触、子どもとの距離感などを繊細に捉えるところが浅井さんの持ち味でしょうか。上記の歌は「パイプオルガン」の比喩に説得力があります。「開けっ放し(akeppanasi)」のオノマトペになりそうでならない語感も生きていると思う。

一緒に掲載されている文章は會津八一について。

育児に追われていた奈良での日々が、會津八一の歌によってやわらかく掘り起こされていくところにじーんとしました。

 

 

「佐伯さん」でもなく同い年でもなく二十六万円として好き

荒川梢「午後休」

 

管理職として働く日々を詠んだ一連。

「二十六万円」は「佐伯さん」の月収なのかな。管理職だから主体はそれを知っているのだけど、社員をただの「二十六万円」として見ている冷たさがすごい。その金額は会社にとってはおトクなのだろう、だから好きなのだろう。これは管理職になることの冷たさでもある。それを書くのがすごい。

文章のほうは荒川さんと同じ名古屋出身の小島ゆかりについて。高島屋を詠んだ歌への言及の中の「新駅舎になったからではなく、高島屋によって名古屋が変わった気がする」という一文にへえ~と思いました。札幌も高島屋ができたら変わるかな?

 

 

みの虫のようにくるまり眠る児の小さき胸に耳をあてがう

池田郁里「点と点」

 

「みの虫のように」という比喩はその見た目よりも小ささのほうを描き出しているように思う。その「小さき胸」(←だからこれはちょっと表現が重複していると思いますが)に耳をつけて心音を確かめる主体は、もっと小さく弱々しく見える。夜のしじまの中で小さく寄り添う二人の姿が印象的。

文章は埼玉県ゆかりの大西民子について。

民子は埼玉について多くは歌にしなかったようだけど、だからこそ歌から想像して楽しむこともできますね。

 

 

プロ野球選手名鑑ぺらぺらと捲れば男の顔ばかりある

伊藤すみこ「青いスバル」

 

「空想の孫の話をする父」と「輪郭の薄れた母」の歌に続いてこの歌が並んでいる。プロ野球選手はみんな男、監督やコーチも男、球団のエライ人も男、実況解説も男。ちなみにテレビ局のスポーツ部も男所帯である。男・男・男の世界。てのひらサイズの選手名鑑に小さくびっしり男の顔が並んでいるのは正常なのだろうか、と思わされる。

文章は三重県鈴鹿市出身の佐佐木信綱について。

吟行のZINEを作っている伊藤さんらしい、情報満載の楽しい文章でした。

 

 

薄明のはみがきのリズムそれぞれが生まれ変われる四月一日

稲葉千紗「新しい靴」

 

ちょっと前にやっていた歯ブラシのCMを思いだした。家事や育児や仕事で忙しかったり落ち込んだり色々あるけど、歯磨きをしてリフレッシュして前向きになる、様々な女性たちのやつ。

この一連は旦那さんが単身赴任するバタバタを詠んでいるのかな。「生まれ変わる」と言うには疲れ過ぎている感じもするけど、離れて暮らす家族のそれぞれの姿が目に浮かびます。

文章は永田淳の水田の風景を詠んだ歌と黒瀬珂瀾の室見川の歌について。わたしはどちらの景色も馴染みがないので羨ましく読みました。広々とした景色っていいですよね。

 

 

意外とわたしは泣かないのだよハンカチに縫われし檸檬の木の枝そよぐ

小原和「檸檬の木」

 

ほんとうは泣きたいんじゃないかしら。なんて思ってしまう。それでも耐えられてしまう自分をすこしおどけるような上句に胸がきゅっとする。涙を拭くことはないハンカチの、檸檬の木の刺繍というのもセンスがよくて、なんだか風の中に立つ檸檬の木がたったひとりの味方みたいな気持ちになる。

小原さんの文章もすごく面白かったです。青森県五所川原市出身の和田山蘭という歌人について。知らない歌人のことを知るのは楽しい。青森という風土と歌人の気質がぴったりマッチしていて読んでいて気持ちよかった。

 

歯を磨く音の幽霊が背後より近付けり父の恨みかもしれず

加藤陽平「日記」

 

こちらは稲葉さんの歌とは違ってCMにはできなさそうな歯みがきの歌。

「歯を磨く幽霊」じゃなく「歯を磨く音の幽霊」ってなんだよ、とも思うしなんでそれが「父の恨み」なんだよ!(いやいや「歯を磨く幽霊」もヘンですね)相変わらずの加藤陽平ワールド。その音を聴きながらも決して振り向かないであろう主体も怖いです。

文章は名古屋出身の岡井隆について、と見せかけて加藤陽平の自転車と近所の道について。「知らんがな」が「知らんがな」を呼んできてついに最後まで一気に読んでしまう。

 

 

②へつづく

 

7月7日に第69回全道短歌大会があり、その冒頭で石畑由紀子さんとお互いの歌について講演(トーク)をさせていただきました。

参加者は60人ほど。目の前の席にはいつもまひる野北海道支部歌会でご一緒しているメンバーが。「近いよ!」と思いつつ、親しい方たちがそばにいてくれてリラックスすることができました。

 

石畑由紀子さんとは昨年11月の道新短歌賞の授賞式以来。

石畑さんの『エゾシカ/ジビエ』はこのたび日本歌人クラブ北海道ブロック優良歌集賞に選ばれました。おめでとうございます!

 

簡単に内容をまとめておきます。

 

石畑さんのトークテーマは「北海道発・北山あさひさんの歌集から「今」を考える~現代に生きる人間の歌、としての短歌~」。

「北海道」や「女性」といったものを通して拙著『崖にて』『ヒューマン・ライツ』の歌について丁寧に読み解いていただきました。

特にレジュメの「【二】「今」を生きる女性の現在地」というセクションでは、①結婚②苗字③人権(ヒューマン・ライツ)というポイントに分けて、石畑さんご自身の歌に込める思いや体験なども含めて、静かに、しかし熱く語ってくださって、聞き入ってしまいました。あの話、どれくらい通じたかなあ。石畑さん、ありがとう。

わたし石畑さんが歌を朗読する声が素敵で感動しました。やっぱり詩をやっている人(やっていた人)は朗読が上手なのかな。わたしはいつも棒読みになってしまうんですよね~。どうしたら石畑さんみたいに素敵に読むことができるのかしら。

 

『エゾシカ/ジビエ』について。すでに栞や、まひる野の歌集評で書いたことと重複する部分があるのですが、「繋がる・繋がれない・繋がらない」ということで次のような歌を挙げました。

 

(土地・自然・歴史)

手のひらのように平野は雪を待つ灯のともりゆく家々を乗せ

白樺の幹横たわる 昨晩の雷雨あなたの声、でしたか

石畑と名乗りはじめた先人の両手のひらの血豆をおもう

(生命)

根分けした祖父の三つ葉をくぐらせて湯はあさみどり わたしになりな

宵闇の特急おおぞらガラガラと砕ける鹿を足裏に聞く

(病を得て)

けものなら終わるいのちを繋ぎとめひかり輝く廊下の向こう

(性差)

この姓を離したくない きみもまた見覚えのある顔で黙った

(現代詩的な方法≒繋がらない)

次は花になりなよ 鍵を鍵穴に差しこむ 次は鳥になりなよ

 

今回歌集を読みなおして改めておもしろいなと思ったのは、世界からの受信機的な役割をする「身体」のこと、それと、自然との交感を詠む歌と人間(異性)とのディスコミュニケーションを詠む歌が歌集のなかで同居することで、結果的に人間(日本と言うこともできる)の異常さが際立つという点。

また、「繋がる」意識が強いなかで、自身の原点にある現代詩的なアプローチが「繋がらなくてもいい」という態度を見せていることなどもとても興味深く、まだまだ魅力が潜んでいる歌集だなと思いました。

時間切れで最後あまり深く話せなかったのですが、「北海道を詠むことに限界あるのか?」というわたしの問い、というか悩み……。前にも書いたけど、北海道を詠めば詠むほど北海道に閉じ込められていく、ただのローカル歌人になるような気がするという話を最後にしました。

石畑さんは帯広の木や自然が好きで、それらに力をもらっている、それを詠み続けたい――というようなことをおっしゃっていたのかな。なるほどと思いました。薄々感じていたのだけど、石畑さんと私は北海道をよく詠む歌人だけどタイプは全然ちがって、石畑さんは外に開いていく人。わたしは内に潜っていく人なんだな。自分自身、目指しているところへどう辿り着けばいいのか手探り中だけど、石畑さんがそうやって詠んでくれることでわたしの道も照らし出されることもきっとあると思った。

 

大好きな石畑さんとお話しできて楽しかったです!

貴重な機会をいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発売中の「現代短歌」9月号、アララギ特集のなかの「ニューアララギ10人」に寄稿しています。

短歌「幽霊 2024」20首

エッセイ「「ニューアララギ」が何なのかわからないまま書いています」

 

ほんとうによくわからないまま書いていた。

評論も作品も読みごたえあり、勉強になりそうです。

 

 

「うた新聞」7月号、「ライムライト」のコーナーにエッセイ「戦うための筋肉」を書きました。

マンガ家・鳥山明さんのことと、女性歌人の歌のこと。山中千瀬、黒木三千代、今橋愛、葛原妙子各氏の歌を引用しています。

 

 

 

12月に北山あさひ『ヒューマン・ライツ』の歌集批評会をひらくことになりました!

札幌会場+オンラインのハイブリッド開催です。

 

まずは現地参加のお申込みから受付を開始します。

座席に限りがございますのでお早めのお申し込みがおすすめです。

(オンラインのお申込みは11月頃を予定しております)

 

札幌で対面の批評会というのはなかなかありませんので、この機会をお見逃しなく!たくさんのご参加をお待ちしております。

 

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