イタル・タス通信などによると、両国は「相手が先に攻撃をしてきた」と主張。

 

互いに軍事施設への砲撃などを行った。

 

ヘリコプターや戦車、無人機などの被害も確認されている。

 

 

 アゼルバイジャンの友好国であるトルコは同国への支援を表明し、アルメニアを非難。

 

一方、アルメニアの後ろ盾で、アゼルバイジャンにも影響力を持つロシアは双方に自制を求めた。

 

欧州連合(EU)のミシェル大統領も即時停戦を要求した。

 

 

 ナゴルノカラバフ自治州ではソ連末期、多数派のアルメニア系住民がアルメニアへの帰属変更を求めてアゼルバイジャンと対立し、両国で数万人が死亡する紛争に発展。

 

ロシアの軍事支援を受けたアルメニア側が自治州の実効支配を確立した状態で1994年に停戦となった。

 

停戦後も衝突が散発し、2016年4月には少なくとも計数十人が死亡する衝突が発生した。

 

             (産経ニュース)

 

 

両国を少し紹介する。

 

アゼルバイジャン共和国、通称アゼルバイジャン は、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。

 

北はロシア、北西はジョージア(グルジア)、西はアルメニア、南はイランと国境を接し、東はカスピ海に面する。

 

アルメニアをまたいで西南方に飛地のナヒチェヴァン自治共和国があり、アルメニア、イランおよびトルコと接している。

 

首都はバクー。

 

アルメニア人が多数居住する西部のナゴルノ・カラバフ地方は、事実上独立した状態となっている。

 

 

アゼルバイジャン共和国軍は、アゼルバイジャン共和国の国軍。

 

総員12万6,000人である。約60万人の動員能力を有する。

 

軍事費は、27億3,000万米ドル(2018年時点)、対GNP比は5.4%(2018年時点)。

 

 

アゼルバイジャンの軍事建設は、軍事ドクトリンに従い規定されることになっているが、今に至るまでミリー・メジリス(国民議会)により承認されていない。

 

トルコ軍の援助の下、逐次NATO標準に移行しつつある。

 

 

ナゴルノ・カラバフ地方ではアルメニア人の人口が多く、同地域のアルメニアへの帰属変更を掲げたことでアゼルバイジャンと分裂状態となり、ソビエト解体から1994年に停戦合意をするまで紛争地域となっていた。

 

 

停戦合意後も2014年に衝突が起き不安定な状態を抱えていたが、2016年4月2日、ナゴルノ・カラバフ自治州でアゼルバイジャンとアルメニア軍による軍事衝突が発生している。

 

 

戦闘は翌3日も続き、双方で兵士が死亡している。

 

この戦闘でアゼルバイジャンは初めて勝利し「八つの丘を含む200ヘクタール」を奪還した。

 

 

 

アルメニア共和国、通称アルメニアは、南コーカサスに位置する共和制国家。

 

東ヨーロッパに含められることもある。

 

首都はエレバンで、黒海とカスピ海の間にある内陸国であり西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国と接する。

 

1991年にソビエト連邦から独立した。

 

ナゴルノ・カラバフをめぐってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っている。

 

 

 

アルメニア共和国軍は、アルメニア共和国の国軍。

 

ソビエト連邦時代のアルメニア・ソビエト社会主義共和国内務省の武装組織が母体となり、旧ソ連軍のザカフカーズ軍管区の装備の一部を継承して現在に至る。

 

 

2002年初め現在、アルメニア共和国軍の総数は、6万人(陸軍が5万2千人、残りが空軍)に達する。

 

2003年度軍事予算は8,200万ドルであり、これはGDPの4%以上に達し、CIS諸国中で最高の指標である。

 

 

 

ソ連崩壊後、独立したアルメニアでは国防省が設置され、元議会国防・安全保障委員会委員長ワスゲン・サルキシャンが国防相となった。

 

アルメニアは、独立国家共同体(CIS)及びロシア連邦との交渉において、1992年夏、アルメニア領内に駐屯していた3個自動車化狙撃師団の内、2個(第15及び第164師団)の装備を譲渡された。

 

当時、アルメニアには、旧ソ連のカフカース諸国と同様に、欧州通常戦力条約の枠内で制限が課され、戦車220両以下、戦闘装甲車両220両以下、火砲150門以下、軍用機100機以下、多目的戦闘ヘリ50機以下の保有が許可された。

 

 

1992年夏のナゴルノ・カラバフにおける敗北後、サルキシャン国防相は辞職し、同年秋、元首相ワズゲン・マヌキャンが国防相となった。

 

マヌキャンの指導下において、アルメニア軍の建設は本格的なものとなった。

 

特にアルメニア軍の軍事ドクトリンの基盤したのは、1992年 - 1995年国防第一次官及び参謀総長のポストを断続的に占めた元ソ連軍陸軍参謀次長ノラト・テル=グリゴリャン中将であった。

 

 

1992年 - 1993年前後、独立自動車化狙撃旅団が創設され、契約制(志願制)においてのみ充足された。

 

その編成下には、不法に存在していた各種領域防衛部隊が編入された。

 

職業制部隊の創設後、アルメニア軍指導部は、未教育の新兵及び編成中の部隊の戦闘行動での使用を最小限にした。

 

この全ては、国内状況を安定化させた。

 

1993年春から今日まで、召集計画は定期的に遂行されている。

 

 

テル=グリゴリャンは、アルメニアの小さな国土を考慮して、旧ソ連軍で採用されていた国境線から領土全縦深への多段階順次展開システムを否定し、機動力と機動性を向上させた1,500人 - 2,500人から成る3 - 4個大隊編成の自動車化狙撃旅団を作戦単位とした。