青年日本の歌(昭和維新の歌) | 戦車兵のブログ

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2月26日といえば1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件があった日です。

 

 

「二・二六事件」ですね。

 

映画やドラマ、小説やドキュメンタリー・・・様々な媒体で二・二六事件は取り上げられています。

 

その二・二六事件の歌と言えば青年日本の歌(昭和維新の歌)を思い出します。

 

 

青年日本の歌(昭和維新の歌)は現在では右翼の街宣車で大音響で流されることも多く・・・・。

 

様々なイメージを浮かべるでしょうね。

 

私は歌詞が好きですが、二・二六事件そのものを考える時、いろんな思いが複雑に心の中で葛藤しています。

 

純粋な青年将校の思いと、その思想・・・・。

 

戦前の右翼とか皇道派と呼ばれる「革新派」の思想は「天皇を中心とした共産主義」であったとも言えるものであったことを知る人は意外と少ない。

 

「皇道派」という言葉でバリバリの右翼のようで現代的な思想からみると「国家社会主義」ともいえるのだ。

 

昭和維新の歌は青年将校の血を滾らせる力のある歌だったのかも知れない。

 

「青年日本の歌」(昭和維新の歌)の作詞者として知られる三上 卓は、海軍兵学校54期卒業の海軍出身。

 

同期には、福村利明海軍少将、中島親孝海軍中佐、中山定義海軍中佐がいる。

 

 

最終階級は海軍中尉。

 

 

国家主義者。

 

 

第二次世界大戦以前の五・一五事件、および戦後の三無事件の双方に参加した人物として知られる。

 

 

著名な弟子として野村秋介がいる。

 

1930年(昭和5年) - 「青年日本の歌」(昭和維新の歌)作詞。

 

1932年(昭和7年)5月 - 五・一五事件で犬養毅首相を襲撃。

 

1933年(昭和8年) - 海軍横須賀鎮守府軍法会議において反乱罪で死刑を求刑されるが、同罪で禁固15年の判決を受け、小菅刑務所に服役した人物である。

 

 

 

 

青年日本の歌(昭和維新の歌)
作詞作曲 三上 卓

一 汨羅の淵に波騒ぎ
  巫山の雲は乱れとぶ
  混濁の世に我立てば
  義憤に燃えて血潮沸く

 


二 権門上に傲れども
  国を憂うる誠なし
  財閥富を誇れども
  社稷を思う心なし

 


三 ああ人栄え国亡ぶ
  盲たる民世に踊る
  治乱興亡夢に似て
  世は一局の碁(ご)なりけり

 


四 昭和維新の春の空
  正義に結ぶ丈夫(ますらお)が
  胸裡百万兵足りて
  散るや万朶の桜花

 


五 古びし死骸(むくろ)乗り越えて
  雲漂揺の身は一つ
  国を憂いて立つ時に
  丈夫の歌なからめや

 

 


六 天の怒りか地の声か
  そもただならぬ響きあり
  民永劫の眠りより
  醒めよ日本の朝ぼらけ

 


七 見よ九天の雲は垂れ
  四海の水は雄叫びて
  革新の機(とき)到りぬと
  吹くや日本の夕嵐

 


八 ああうらぶれし天地(あめつち)の
  迷いの道を人はゆく
  栄華を誇る塵の世に
  誰が高楼の眺めぞや

 


九 功名何か夢の跡
  消えざるものはただ誠
  人生意気に感じては
  成否を誰かあげつらう

 


十 やめよ離騒の一悲曲
  悲歌慷慨の日は去りぬ
  われらが剣(つるぎ)今こそは
  廓清の血に躍るかな

 

 

 

 

 

映画「叛乱」での軍法会議のシーン。

 

決起した青年将校銃殺刑に処せられた。

 

昭和11年7月12日の刑の執行では首謀者である青年将校・民間人17名の処刑場、旧東京陸軍刑務所敷地にて15人を5人ずつ3組に分けて行われ、受刑者1人に正副2人の射手によって刑が執行された。

 

 

当日、刑場の隣にあった代々木練兵場では刑の執行の少し前から、小部隊が演習を行ったが、これは処刑時の発砲音が外部に知られないようにする為だったという。

 

 

二・二六事件の死没者を慰霊する碑が、東京都渋谷区宇田川町(神南隣)にある。

 

 

旧東京陸軍刑務所敷地跡に立てられた渋谷合同庁舎の敷地の北西角に立つ観音像がそれである。

 

 

17名の遺体は郷里に引き取られたが、磯部のみが本人の遺志により荒川区南千住の回向院に葬られている。

 

 

 

事件当日反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。

 

 

歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。

 

 

 

事件当日は雪であった。

 

 

反乱軍は機関銃など圧倒的な兵力を有しており、警備の警察官らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した。

 

 

事件で死亡した被害者

松尾伝蔵 (内閣総理大臣秘書官事務取扱/私設秘書・予備陸軍歩兵大佐)

 

高橋是清 (大蔵大臣)

 

斎藤実 (内大臣)

 

渡辺錠太郎 (教育総監・陸軍大将)

 

警察官5名

 

重傷

 

鈴木貫太郎 (侍従長・海軍大将)

 

他警察官など負傷者数名

 

 

 

映画「226」も青年将校の視点から描かれている。

 

しかし、暗殺された人達は悪い奴だったのだろうか?

 

私はそうは思わない。

 

北海道と二・二六事件は縁が深く青年将校も暗殺された方も関係者がいる。

 

以前熱中して調べていた頃もあったが、年齢を経てゆくといろんなことが解ってきて青年将校が正しかったとは思えなくなっていった。

 

 

暗殺された人物の話として一番最初に思い浮かぶのが先年亡くなられた渡辺 和子さんだ。

 

キリスト教カトリック修道女で、学校法人ノートルダム清心学園理事長をされていた方だ。

 

北海道旭川市生まれで、父は二・二六事件で暗殺された陸軍大将渡辺 錠太郎陸軍教育総監だ。

 

旭川第七師団長を歴任し、信望の厚かった師団長であった。

 

渡辺錠太郎が七師団長の時に生まれたのが渡辺 和子さんだ。

 

 

 

渡辺 和子さんは、当時成蹊小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇。

 

父の居間で、当時大将で教育総監だった父が青年将校に襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのを、わずか1mほどの距離から目の当たりにした。

 

渡辺 和子さんの回想

 

「血の海の中で父は死にました。凄惨な死でございました」

 

 

『兵士たちの怒号を聞きまして、まだ寝ておりました父が、すぐ起きまして、自分の左手にあります小さな襖を開けて、拳銃を取り出しました。

 

覚悟していたのだろうと思います。

 

そして私に「和子はお母様のところへ行きなさい」、これが最後の、私が父から聞いた言葉でございました。

 

逃がしてくれたわけでございます。

私は寝ぼけ眼で、寝室と茶の間の間のふすまを開けて、台所に母の姿があるかと思って探しましたところ、母は兵士たちを中に入れない、防ぐために必死でして、私の方など見向きもしませんでした。

 

 

仕方なしに父の所にまた戻ってまいりました。


その頃には流れ弾が寝間に打ち込まれておりまして、よく当たらなかったと思うんですけれども、私はそれをかいくぐってまいりましたところ、掻巻(かいまき、綿の入った袖のある寝具)を自分の身体に巻き付けて、ピストルを構えておりました。

 

 

私が戻ってきたのを見て、非常に困った顔をしまして、目で、座卓の後ろに入るように示してくれました。



私もそこに隠れました。

 

ふすまが開けられて、軽機関銃の銃身が差し込まれて、父の足を狙って撃ち始めた。

 

私の父は陸軍でも射撃の名手だったようでございます。

 

 

3発ほど撃ったと言われておりますけども、いずれにしても軽機関銃にはかないません。

 

足を集中して撃ったらしく、片足はほとんど骨ばかりでございました。

茶の間の方から青年将校2人(高橋太郎少尉と安田優少尉)と兵士が数人入ってきて、父を射撃いたしまして、最期に銃剣で切りつけて、とどめを刺して帰っていきました。

 

 

ずっと座卓の影から見ておりまして、引き上げていった後、出てまいりまして、「お父様」って呼んだんですけど、もちろん事切れておりました。

 

あたり一面、父の肉片、骨片が飛び散っておりましたし、寝間の柱にも銃弾の跡が残っておりました。



その後、母がすぐに寝間に参りまして「和子は向こうに行きなさい」と言われてその場を離れました。

 

午後になりまして、包帯でぐるぐる巻きになった父が布団の上に横たわっておりました。

 

額に触ったときにとても冷たかったのを、今でも感触を覚えております。

 

亡くなった姉によりますと、43発、弾を父の身体の中に撃ち込まれていたということでございます。


雪の上を点々と血が残っておりました。寝間の前は庭でして、雪が本当に真っ白に積もっておりましたけども、兵士が帰っていくときの返り血なのか、足か何かを狙って撃ったときの血なのか分かりませんけども、その血の赤さは今でも焼き付いております。』

 

 

二・二六事件を語る時、決して青年将校視点だけでなく被害に遭った陸軍大将渡辺錠太郎陸軍教育総監の最期だけでも知っておいて欲しい。

 

革命とはこういうもので、今の反日左翼が暴力革命を標榜している先にはこういうこともあるのだと。