戦闘の詳細
ドイツの計画
侵攻作戦は陸軍参謀総長フランツ・ハルダーに起案され、陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュによって指揮された。
フランツ・ハルダー
軍事攻撃は宣戦布告より前に開始されることになっており、近代的な航空戦力と戦車部隊を使った伝統的な殲滅戦理論に則したものであった。
歩兵はほとんど自動車化されていなかったが、自走砲部隊と兵站部隊を維持して戦車部隊に支援され、トラックに載せられた歩兵(装甲擲弾兵の前身)は敵前線に集中する侵攻部隊の迅速な移動を助け、孤立した敵の部隊を包囲殲滅することとなっていた。
ヴァルター・ハインリヒ・アルフレート・ヘルマン・フォン・ブラウヒッチュ
それに対して、イギリスの研究者たちによって提唱されハインツ・グデーリアン等がドイツ軍の戦術として導入することを主張していた電撃戦理論は、機甲部隊が敵前線に激しい攻撃で突破口を開き、敵の後方深くまで一気に進撃することであったが、実際のところポーランドでの作戦は電撃戦でなく、もっと伝統的な殲滅戦理論に沿って戦われることとなった。
これは装甲師団や機械化部隊の役割を伝統的な歩兵部隊の支援に限定すべきだとする、陸軍上層部の間に蔓延していた保守主義に原因するものであった。
ポーランドは平野が多く、総延長5,600キロメートルもの国境線を抱えた広い国だったので、機動的な作戦に適した国であった。
ポーランドは西と北(東プロイセン側)でドイツと総延長2,000キロメートルもの長い国境を接していた。
1938年のミュンヘン協定後はドイツとの国境は南部でさらに800キロメートル延長された。
ドイツのベーメン・メーレン保護領の設置と、ドイツの傀儡国家である独立スロバキアの誕生は、ポーランドの南側面がドイツによる攻撃に対し無防備になっていることを意味していた。
ゲルト・フォン・ルントシュテット
ドイツの戦争計画立案者は長い国境線を侵攻作戦の殲滅戦理論の機動戦術に存分に利用しようと目論んだ。
ドイツの各部隊はポーランドを3方面から侵攻することとなった。
ドイツ本土からポーランドの西国境を突破する主力攻撃。
これはゲルト・フォン・ルントシュテットが指揮する南部軍集団がドイツ領シレジアと、モラヴィアおよびスロバキア国境から攻撃する。
ヨハネス・アルブレヒト・ブラスコヴィッツ
ヨハネス・ブラスコヴィッツが指揮する第8軍はウッチ市へ向け東進、ヴィルヘルム・リスト将軍の第14軍はクラクフ市へ向けて前進しポーランドのカルパチア山系側面を迂回、そしてヴァルター・フォン・ライヒェナウが指揮する第10軍は南部軍集団の装甲師団と共に中央に位置し敵に決定的な打撃を与えながらポーランドの中心部へと推し進む。
プロイセンからの第2の攻撃ルート。
北部軍集団はフェードア・フォン・ボックが指揮する。
ゲオルク・カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・キュヒラー
ゲオルク・フォン・キュヒラー将軍の第3軍は東プロイセンから南進し、ギュンター・フォン・クルーゲ将軍の第4軍はポーランド回廊の横切って東進。
第3の攻撃は南部軍集団の一部と同盟した独立スロバキア軍がスロバキアから攻撃。
ポーランド国内では開戦前に第五列であるドイツ系住民の自衛団 (Selbstschutz) の各部隊が陽動作戦や破壊活動を行いポーランドに侵入するドイツ軍を支援した。
全ての強襲部隊はワルシャワに向かって進軍し、その過程でポーランド軍の主力部隊はヴィスワ川の西で包囲殲滅されることとなっていた。
「白の場合」作戦は1939年9月1日に開始され、第二次世界大戦の最初の軍事作戦となった。
ポーランドの計画
ポーランドの防衛計画、暗号名「西方 (Zachód)」はポーランド・ドイツ国境に直接に兵力を展開するという内容である。
これはポーランドが他国から侵略を受けた際に、イギリスがポーランドに対し軍事的援助を行うという約束を元に立てられた計画である。
さらに、ポーランドにとって最も価値のある天然資源、産業、そして人口の多い地域が西部国境付近(シレジア地方)に集中しているため、ポーランドの政策はこれらの地域を防衛することを主眼としていた。
特にポーランドの多くの政治家には、ドイツが論争の種にしている地方(たとえば、いわゆる「ダンツィヒか戦争か」の最後通牒の原因となったポーランド回廊など)からポーランド軍が撤退した場合、イギリスやフランスはドイツと1938年のミュンヘン協定と同様の新たな平和条約を締結してしまうのではないかという危惧があった。
これらの国のどれも、ポーランドの国境と領土を完全には保証していなかった。
ポーランドはこれらの前提に立って、川幅の広い自然の要衝であるヴィスワ川とサン川の後方に自軍の大部分を展開すべきだというフランスの助言を無視した。
ポーランドの将軍の幾人かは、このフランスの助言をより有効な戦略だとして支持を主張していたが、それは受け入れられなかった。
ポーランドはこれらの前提に立って、川幅の広い自然の要衝であるヴィスワ川とサン川の後方に自軍の大部分を展開すべきだというフランスの助言を無視した。
ポーランドの将軍の幾人かは、このフランスの助言をより有効な戦略だとして支持を主張していたが、それは受け入れられなかった。
西方 (Zachód) 計画はポーランド陸軍を自国領の奥深くに撤退する余地を与えたが、撤退は川(ナレフ川、ヴィスワ川、サン川)の付近に準備された場所から後方へとゆっくりと行われなければならなかった。
うまくいけばこれによって、ポーランドは軍の動員完了までの時間稼ぎをし、「西側同盟諸国」が約束どおりの攻勢をかけた時に自軍も大規模な「反転攻勢」にかけられるはずであった。
ポーランド軍にとって最も悲観的なケースとなる「退却戦計画」は、サン川の後方から自国領の東南部地方への撤退と、時間稼ぎの長い防戦(ルーマニア橋頭堡作戦)を含むものであった。
イギリスとフランスは両国が戦争に介入した場合でもポーランド軍はせいぜい2ヵ月から3ヵ月の間しかこの東南部の地域で防戦することができないと考えていたが、ポーランドはその場合にはその地域の地形(山岳地帯)を利用して自軍は6ヵ月持ちこたえられると判断していた。
このポーランドの計画は、同盟国がポーランドと結んだ相互援助条約を遵守して、すみやかにドイツに対し攻勢をかけることを前提としていた。
しかし、実際にドイツのポーランド侵攻作戦が行われている間、フランスもイギリスもドイツを攻撃する計画を立てていなかった。
両国の計画は先の大戦での経験に基づいており、両国は塹壕戦によってドイツの力を弱めることができると考えており、その結果としてドイツに平和条約を結ばせ、ポーランドの独立を回復できると期待していた。
しかしポーランド政府はこの両国の計画について知らされておらず、ポーランドの全ての防衛計画は西側同盟諸国の迅速な救援行動への期待の上に立てられていたのである。
結果として、国境を広く防衛するというポーランドの計画は、ポーランド敗北の主因となった。
ドイツによるポーランド侵攻の間、ポーランド軍は非常に広大な国境線に薄く引き伸ばされて配置され、コンパクトな防衛線と有利な防衛配置をとることができず、補給線も充分守られずに、しばしば機械化されたドイツ軍に包囲される結果となってしまった。
ポーランド軍のおよそ3分の1はポーランド回廊とその周辺(ポーランド西北部)に重点配備されたが、彼らは東プロイセンと西方からの敵により孤立させられ、さらに挟撃の危険に晒された。
南部では、進撃するドイツ軍の主要進撃路に対し、ポーランド軍は薄く広く配置されていた。
エドヴァルト・リッツ=シミグウィ
同時に、ポーランド軍の別のほぼ3分の1は前線から離れ、エドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥の指揮下に集結したまま国土の中北部、ウッチ市とワルシャワ市の間に残されていた。
前方に集結したポーランドの部隊は大部分が敵の動きに遅れをとり、戦う機会を失ってしまった。
ドイツ軍と違い、動員途中で装備の整っていなかったポーランド兵の多くは徒歩で移動せざるをえず、後方の防衛線まで移動することができず、侵略者の機械化部隊が国内に展開する前に適切な配置がなされなかった。
ポーランド軍司令部の戦略的ミスは、国境線を防衛するという政治的決断だけではなかった。
ポーランドの戦前のプロパガンダでは、ドイツ軍のどのような侵略も速やかに撃退できるとされていたので、ドイツ軍に対する敗北は多くの市民にショックを与える結果となってしまった。
市民はそのようなニュースに対する心の準備や、そういった事態に対する訓練ができていなかったため、パニックに陥り東へと避難し、混乱が広まり、兵士の士気も落ち、ポーランド兵の道路輸送も滞ることとなった。
ポーランドのプロパガンダは、ポーランド軍自身にとってもまずい結果となった。
通信手段が後方で活動するドイツ軍の機動的な部隊によって遮断され、避難する市民は道路を塞いだため、架空の勝利やその他の軍事行動を伝えるラジオや新聞からの不確実な情報によって、連絡そのものが混乱に陥った。
このためいくつものポーランド部隊は、実際のところは敵に包囲されていても抵抗不可能だという見込みを信じず、部隊全体は反転攻勢をかけているとか、自軍が勝利を収めた地域から援軍が得られるという誤った判断をしていた。