沖縄県民斯ク戦ヘリ 大田実海軍中将 | 戦車兵のブログ

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「沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」


昭和20年6月6日沖縄戦で、海軍最先任者として沖縄根拠地隊司令官を務め、米軍上陸時に約1万人の部隊を率いて沖縄本島小禄半島での戦闘を指揮した大田 実海軍中将が海軍次官宛へこの有名な電報を送った日である。


大田実海軍中将について少し紹介する。


以下ウィキペディアより転載



大田 実(おおた みのる、1891年(明治24年)4月7日 - 1945年(昭和20年)6月13日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。千葉県長生郡長柄町出身。


海軍兵学校41期入校、席次は入校時は120名中53番、卒業時118名中64番。草鹿龍之介、木村昌福、田中頼三などが同期生である。


大田は海軍における陸戦の権威者で、第一次上海事変に参戦したほか、二・二六事件では佐藤正四郎麾下の陸戦隊大隊長として東京へ出動している。

同部隊の参謀は大田とともに海軍陸戦隊を代表する指揮官となった安田義達であった。


太平洋戦争においては、第二連合特別陸戦隊司令官としてミッドウェー島上陸部隊の海軍指揮官となる(陸軍部隊指揮官は一木清直)が、ミッドウェー海戦における敗北により上陸作戦は中止となった。


のちに第八連合特別陸戦隊司令官に転じ、ムンダ、コロンバンガラなどで苦闘した。

沖縄戦では、海軍最先任者として沖縄根拠地隊司令官を務め、米軍上陸時に約1万人の部隊を率いて沖縄本島小禄半島での戦闘を指揮。


陸軍の首里から摩文仁への撤退に際して、海軍司令部は作戦会議に呼ばれず、直前の5月24日ごろ(異説あり)になって初めて知らされたとされる。


いったんは完全撤退と受け止め、重火器を破壊して南部への撤退を始めるが、後に「第32軍司令部の撤退を支援せよ」との命令を勘違いしたことがわかり、5月28日には再び小禄へ引き返した。


6月2日に改めて「摩文仁へ撤退せよ」との命令が出されるが、大田は今度は従わなかった。


命令を意図的に無視したのか、米軍に退路を断たれて撤退できなかったのかは不明である。


沖縄での海軍部隊の戦いぶりは米国公刊戦史に以下のように記述されている。


『小禄半島における十日間は、十分な訓練もうけていない軍隊が、装備も標準以下でありながら、いつかはきっと勝つという信念に燃え、地下の陣地に兵力以上の機関銃をかかえ、しかも米軍に最大の損害をあたえるためには喜んで死に就くという、日本兵の物語であった。』


— 吉田俊雄『海軍名語録』より引用


米軍の攻撃により司令部は孤立し、大田は豊見城にあった海軍壕内で拳銃で自決した。


死後海軍中将に特別昇進する。


自決する直前の6月6日に海軍次官宛てに発信した電報は広く知られている。


当時の訣別電報の常套句だった「天皇陛下万歳」「皇国ノ弥栄ヲ祈ル」などの言葉はなく、ひたすらに沖縄県民の敢闘の様子を訴えている。


この電報を読んだ井上成美海軍大将が感動して、終戦運動を激しくしたと言われる。


辞世の句

大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり



最後の沖縄県令であった島田叡と は沖縄戦の最中でも密接な連絡を取り合い、大田と島田は「肝胆相照らす」仲であったと言う。


大田が最後に残した電文中にある「県知事より報告せらるべきも」「本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども」の冒頭文は、既に沖縄県の組織自体に通信能力が無く、民間人の苦労を伝えるのに最も相応しいのは「県民に関して、殆ど顧みるに暇なかりき」と言った自分達では無く最後まで彼ら県民と共にあった島田達であるが、大田が行政官である島田に代わって県民の姿を伝えたものである。


(ウィキペディア)

海軍次官宛の電報(文中の□部分は不明)


発 沖縄根拠地隊司令官


宛 海軍次官


左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度


沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ


沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ


然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ


而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ

所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ


看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ


更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ


是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン


糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ


沖縄県民斯ク戦ヘリ


県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

電報の現代語訳


沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。


沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。


しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。


どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。


看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。


さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。


つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。


食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。


沖縄県民はこのように戦い抜いた。


県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

落合畯元海将補


大田中将の求めた“沖縄県民への後日の特別のご高配”は、日本が降伏したために叶わなかった。


大田中将の遺族は劇的な運命をたどった。


大田中将には11人の子供がおり、長男大田英雄は社会科教師で平和運動家。湾岸戦争後の自衛隊ペルシャ湾派遣の際の指揮官である落合畯一等海佐(当時)は3男。大田豊一等海佐は4男。3女板垣愛子はパーフェクト リバティー教団(PL)の教校長。


娘の一人は後年、アメリカ人と結婚し渡米したが、沖縄戦で米軍を苦しめた日本軍幹部の娘というので、パンも売ってくれないなど、酷いいじめに遭った。後年、小渕恵三首相が「大変でしたね」と慰めると、彼女は「父の苦労に比べたら、たいしたことはありません」と泣き崩れたという。


大田は長男を軍人にしたいと願い、いずれ海軍大将になってほしいとの願いから「英雄」と名づけた。一方、三男には農業をして家を守ってほしいと「畯」(たおさ)と名づけた。しかし2人は戦後、まったく別の道を歩むことになった。


畯がペルシャ湾へ派遣される際、兄の大田英雄が、出港の5時間前に突然、旗艦であった掃海母艦はやせの司令官室を訪問した。畯が上官に「これがかつて有名な反戦教師です」と紹介して笑いを誘うと、兄は「お前も平和が目的だろ。一人も殺さず帰って来い」と切り返した。