2.26事件秘話 渡辺教育総監襲撃 1 | 戦車兵のブログ

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北海道は2.26事件関係者に縁がある。


それは決起した青年将校が旭川の聯隊に関わりを持つ者が多いからなのだが、襲撃され暗殺された陸軍大将渡辺錠太郎教育総監は旭川第七師団長をしており、当時を知る古老から以前話を伺った時に「渡辺閣下は大変立派方だった」と言っていたのを思い出す。


旭橋近くの常盤公園の碑は当時の渡辺師団長が揮毫したものだ。


2.26事件について今年は渡辺教育総監襲撃事件を紹介します。


青年将校目線で語られることの多い2.26事件、暗殺された側目線で見なければ「昭和維新」なる革命の本質は解らない。
以下ウィキペディアより転載


渡辺錠太郎教育総監


教育総監渡辺錠太郎
陸軍教育総監(陸軍大将)渡辺錠太郎は真崎甚三郎の後任として教育総監になった直後の初度巡視の際、真崎が教育総監のときに陸軍三長官打ち合わせの上で出した国体明徴に関する訓示を批判し、天皇機関説を擁護した。これが青年将校らの怒りを買い、襲撃を受ける。


斎藤内大臣襲撃後の少尉高橋及び少尉安田が部隊を指揮し、時刻は遅く、午前6時過ぎに東京市杉並区上荻窪2丁目の渡辺私邸を襲撃した。ここで注意すべきなのは、斎藤や高橋といった重臣が殺害されたという情報が、渡辺の自宅には入っていなかったということである。


殺された重臣と同様、渡辺が青年将校から極めて憎まれていたことは当時から周知の事実であり、斎藤や高橋が襲撃されてから1時間経過してもなお事件発生を知らせる情報が彼の元に入らず、結果殺害されるに至ったことは、彼の身辺に「敵側」への内通者がいた可能性を想像させる。



殺されるであろう事を感じた渡辺は、傍にいた次女の渡辺和子を近くの物陰に隠し、拳銃を構えたが、直後にその場で殺害された。


目前で父を殺された和子の記憶によると、機関銃掃射によって渡辺の足は骨が剥き出しとなり、肉が壁一面に飛び散ったという。渡辺邸は牛込憲兵分隊から派遣された憲兵伍長及び憲兵上等兵が警護に当たっていたが、渡辺和子によれば、憲兵は2階に上がったままで渡辺を守らず、渡辺一人で応戦し、命を落としたのも渡辺だけであったという。

28日付で教育総監部本部長の陸軍中将中村孝太郎が教育総監代理に就任した。渡辺は事件後に位階を一等追陞されるとともに勲一等旭日桐花大綬章が追贈された。

(ウィキペディア)


渡辺錠太郎 は苦労人であった。


家庭が貧しかったために、小学校を中退している。


その後、看護卒を志願して陸軍に入営(当時は、陸軍上等看護長になると医師開業免状を与えられたので、医師を目指して入営している)。


中隊長から優秀であることを評価され、陸軍士官学校 (日本)の受験を勧められ、師団内1位の成績で合格。


その後陸軍大学校に入学し明治36年に首席で卒業。


1894年12月 陸軍士官候補生


1895年7月 陸軍士官学校入校(8期)


1896年11月 陸軍士官学校卒業


1897年6月 歩兵第19連隊付、少尉任官


1899年11月 中尉


1900年12月 陸軍大学校入校(17期)


1903年12月 陸軍大学校卒業、歩兵36連隊中隊長及び大尉


1904年7月より9月 日露戦争に出征、負傷


1904年10月 大本営参謀


1905年9月 元老山縣有朋の副官


運命の2.26事件と渡辺大将


以下ウィキペディアより転載


1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である荒木貞夫陸相は強権的人事により評判が低下した。


荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して林銑十郎が就任した。


翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選ばれた。


渡辺は、乱れきった陸軍の統制を締め直すために、あえて火中の栗を拾った。


渡辺は、ヨーロッパ流のリベラル派の教養人であり、給料の大半を丸善書店の支払いに充てていた。


名古屋で第3師団の将校たちを集め、天皇機関説を擁護したといわれているが定かでない。


しかし、この就任劇がいわゆる皇道派青年将校を刺激したことは確かである。


(中略)


渡辺は天皇機関説を徹底的に弾圧した前任の真崎とはまったく人物の度量が異なっており、渡辺の自由主義的な発想や意見は、そもそも人文社会科学的な教養に乏しい過激青年将校の憎悪を招いた。



(ウィキペディア)

次女渡辺和子さんの証言。



以下「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」『文藝春秋』2012年9月号より抜粋


 一九三二年には五・一五事件がありました。


その約三年後の三五年七月に皇道派とされる真崎甚三郎大将が教育総監を更迭〈コウテツ〉され、父が後任になりました。

翌月には永田〔鉄山〕少将が暗殺される事件も起きました。


そのような背景がありましたから、父の警護のために自宅には憲兵が二人常駐していました。私と父とで一軒先にある姉夫婦の家に行くわずかな時間にも、必ず憲兵が後ろについておりました。


 私が疑問を感じているのは、この憲兵たちの事件当日の行動です。お手伝いさんの話では、確かにその日、早朝に電話があり「(電語口に)憲兵さんを呼んでください」と言われ、電話を受けた憲兵は黙って二階に上がっていった、というのです。しかし、一階で父と一緒に寝ていた私たちのもとのは何も連絡が入りませんでした。私にはその電話の音は聞こえませんでしたが、もし彼らから何か異変の報告があれば、近くに住む姉夫婦の家に行くなりして逃げることも出来たはずです。しかし、憲兵は約一時間ものあいだ、身仕度をしていたというのです。兵士が身仕度にそんなに時間をかけるでしょうか。


 また、父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵は、父のいる居間に入ってきていません。父は、一人で応戦して死んだのです。命を落としたのも父一人でした。この事実はお話ししておきたいと思います。


(「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」)より


憲兵が護衛せず陸軍大将が娘を守らんと拳銃で応戦し9歳の娘の目の前で殺害された。


青年将校目線で語られる2.26事件は多いが、被害者目線から見れば単なる殺害事件でしかない。