西暦2009年の2月20日、なんでも屋パントさんという人がアメブロから姿を消した。
実はその人は私が論破をした人であり、私は彼とのいざこざを“パントさん事件”と名づけてブログに公開した。
そんな“パントさん事件”が起きるまでの経緯を軽く振り返ってみようと思う。
私がアメブロをはじめたのは西暦2008年11月のことで、おしゃれで、かわいくて、ほのぼのとしたアメブロのトップ画面を目にした私はほっと深い安堵の息をついてしまった。
ブログといえば荒らしだの迷惑コメントだのといったおぞましい一面があるらしいことを本で読んで学んでいたので、いったいどのような恐ろしい世界なのだろうと少々ドキドキしながらアメブロをはじめたのだ。
しかしくり返すようにトップ画面はほのぼのとしているし、当初の頃はコメント欄にコメントをくれる人もゲストブックにコメントをくれる人もメッセージをくれる人も全員いい人ばかりで、噂に聞く荒らしや迷惑コメントというのはいったいどんなものなのか、まったく想像がつかない日々がしばらく続いたものだった。
が、である。1ヶ月、2ヶ月とブログ生活をおくっているうちに、ようやく噂の迷惑コメ
ントらしきものがちらほらと送られるようになり、私はその迷惑コメントを送ってきた悪人を逆に罵倒してこらしめる記事を公開するようになっていった。テーマは論証といい、記事の数も10を超えている。
当初は迷惑コメントひとつひとつに対処していたのだが、ある時期から“きりがない”ことに気づき、記事での公開はやめてコメント欄に《メシアの論証》というタイトルで短めに切り裂くようにしていった。
そんな私のテーマ・論証の記事に理解や共感を示してくれる人が多くあらわれ、『迷惑コメントを送ってきた人をたたきたいんですよね?わかります』『メシアさんの考え方、きらいじゃないです』といったコメントも寄せられるようになっていった。
が、そんなある日のことだ。私の読者のひとりでもあるパントさんという人が、迷惑コメントを送ってきた悪人をこらしめる意図の私の記事をどういうわけか、無実の人々の記事を自分のブログの中であざけり笑うものと勘違いしてしまい、私に『自分の悪事に気づきなさい!』というメッセージを伝える記事を数多く公開した。
そのパントさんのブログを真に受けた人たちが私を罵詈雑言をまき散らす悪の大王と誤解してしまい、非難や野次のコメントが山のように送り届けられることとなった。これが“パントさん事件”の概要である。
最終的には私の論証によってパントさんは自分の誤解と非を認め、私に謝罪と反省の言葉を述べた。
しかし、それだけでは私についた最悪のイメージを拭い切れないので、私はパントさんに『今までのはすべて自分の勘違いであってメシアくんはなにも悪くはありません。申し訳ありませんでした』といった内容の記事を1ヶ月間公開し続けてくださいと要求した。しかしパントさんはその要求を拒んだため、激昂の火山が爆発した私はパントさんを徹底しておとしめようと決意して新たな記事を公開していったのだ。
そんな私の行為に賛否は分かれ、運営者のパントさんが姿を消して放置された状態のパントさんのブログを舞台に、罵詈雑言コメントの浴びせ合いが勃発することとなった。
一部の人たちはそれを“お祭り”と呼んで楽しんでいたみたいだった。
ところで、こうした“パントさん事件”を通じてわかったことがふたつある。まずひとつ目は、世の中にはとにかくいろいろな人がいるということである。
まずは“パントさん事件”を起こした張本人のパントさん。
彼は迷惑コメントを送ってきた悪人を成敗する意図の私の記事を、無実の人々の記事を自分のブログの中であざけり笑うものなのだとありえない勘違いをしてしまった。そして私の論証によって自分の勘違いに気づき、しばらくアメブロから姿を消したのだが、本人のパントさんが自分の非を認めたにもかかわらずなぜかパントさんの正当性を叫び続ける人が後を絶たなかった。彼らもまた、自分の勘違いに気づけていない部類の人たちなのである。
そんなパントさんの最大の理解者と目されるとある女性、仮にEさんとしておこう。
彼女もまた私の記事の内容を理解できない人で、パントさんが私に謝罪を述べて姿を消してからも私を悪人と批判し続けた。
が、そんなEさんはただ理解力が低いだけで、愛と義烈心に満ちた女性のような印象を受ける。私はEさんにメールを送ったのだが、メールの説明によって真実に接近してくれることを祈る。
また、パントさんのブログのコメント欄を舞台に罵倒の浴びせ合いが勃発したと書いたが、はっきりいって私の味方をしてくれていたのはたったひとりの女性だけだった。
仮にFさんとしておこう。彼女は『メシアさんを苦しめないで』といっていたので、残念ながら私の記事の内容すべてを理解しきることはできていなかったみたいだ。
誰がなんといおうと正しいのは私であり、すべて記事の中に書きつくした。誰も異論を挟むことはできない。張本人のパントさんみずから謝罪を述べて姿を消しもしたのだから。
もしもそのことをわかっていれば私にどんな罵倒が浴びせられても『フフ、無理解なお猿さんたちだ』と一笑で済ませていたはずである。しかしむきになって対抗し、『メシアさんを苦しめないで』と援護するところを見ると、唯一の味方だったFさんは私の記事の内容のすべてを理解しきれていなかったみたいである。
そんなFさんから先日、お別れを告げるメールが届けられた。
私は自分の記事のコメント欄の中で敵対する読者とアホ論争をくり広げていたのだが、どうやらその様子にあきれ返ってしまったらしいのだ。
私はただちょっとした暇つぶし、ちょっとしたジョークで年下の子供たちを相手にしていただけだったのだが、Fさんはよほど生真面目な人なのだろう、またよほど私に崇高なイメージを抱いていたのだろう、ふざけたアホ論争をくり広げる私に幻滅してしまったようなのである。
理屈っぽいかたい記事を書く私にも、ふざけたおちゃらけた面もあるというだけなのだ。Fさんにはそれがわからなかった。さらにそうした1面を持つ私を許せる心の広さがなかった。
もしもこの記事を読んでいたら、Fさんには広い視野と度量を獲得していってもらいたい。
その一方、子供たちとのアホ論争もすべてひっくるめて私のブログのファンと思われる女性もいる。仮にGさんとしておこう。
そのGさんは私とパントさん派の人たちとの喧嘩祭りがなんとなくおもしろおかしいからという理由で私の読者になったらしい。
知能や子供たちのお手本度はFさんのほうが上かもしれないが、視野の広さや頭の柔らかさはGさんのほうが遥かに上といえるだろう。
あともうひとり。かつてパントさんのブログに私を批判するコメントを送ったとある女性から、ひかえめないいまわしのコメントが送られてきた。
かつて私を批判したことがあるのだから、もっと怒り心頭の様子が伝わってくる文を書きそうなところだと思われるのだが、その女性は私の記事によって“パントさん事件”の真実にぐぐっと接近したらしく、つい前までは敵だった私に短くひかえめな文による質問のコメントを送ってきた。
内容のほうは見当はずれのものだったが、彼女の知能と理解力はほかの連中と比べたらそこそこ高いと見ていいだろう。
また、前述したように、私はコメント欄の中で読者の子供たちとアホ論争をくり広げていた。しかし中にはかなり知的な奴もおり、彼は私を『おまえは卑怯な政治家のような奴だ!』とののしったりもした。
卑怯な政治家━━そうした連中を地球上から滅却するべく降臨したメシアの私がそんなののしりを浴びせられるとは夢にも思っていなかったが、常日頃から卑怯な政治家に怒りを抱いているということは彼が正義の人間である動かぬ証拠である。
これから彼が待ち望む光の理想世界が本当に到来することになる。しかし、そのためには彼のような人間の助けが必要なのだ。どういう理由で私に敵意を抱いているのかよくわからないが、彼のような正義の塊人間の力がワールド・ルネッサンスには必要不可欠なのである。
もうひとり、私に執拗に罵詈雑言のコメントを送ってくる中学生くらいの少年がいた。彼はとにかく私が気に食わないらしく、私の文のなにもかもを罵倒し続けた。
しかし、けっして悪い奴ではないらしいことが匂う言葉を2、3見かけたので、ただ単に全身にくすぶるエネルギーの正しい発散場所を見つけられずにいるだけなのだろう。
全国の彼のような人々よ。これから不満と苦悩に満ちたあなたたちに、強烈なエネルギーの正しい発散場所が与えられることになる。その日を楽しみに生き続けていってくれ。
けっして悪い奴ではない━━それは“パントさん事件”の張本人であるパントさんにもいえることだ。
パントさんはただとんでもない勘違いをしてしまっただけであり、けっして悪い人ではないだろう。
そんなことはすぐにわかる。ルームの《尊敬する人》のところに“母”と書いているのだから、母親を尊敬する人が極悪人のわけがない。それに私はパントさんのことを悪人だとは1言もいっていない。ただ“知能が低くて往生際の悪い人”だといっているのだ。
自分がとんでもない勘違いを犯して私に多大な迷惑をかけたのだから、そのことを素直に認めて謝罪し、私の要求どおりに謝罪の記事を1ヶ月間公開し続けてくれさえすればよかったのだ。そうすれば私もパントさん関連の記事は消すつもりでいたのだから……。
しかし往生際の悪いパントさんは最後の最後までいいわけを口にし続け、結局謝罪の記事を公開することはなかった。そのために私の怒りに火をつけたというわけなのである。
ところで、私に敵意を持って罵倒コメントを送ってくる人間たち。彼らはなぜ私に敵意を抱いているのだろうか?私は彼らにあざけりや嘲笑を浴びせて不快を与えた覚えはない。あざけりや嘲笑を浴びせてきたのは、すべて君たちのほうからではないか。私はあくまで君たちの嘲罵に対して倍返しの嘲罵でお返しをしたというまでである。
自分から喧嘩をふっかけた。しかし相手のほうが口が達者だった、弁が立った。喧嘩に敗北した。その屈辱感を敵意に変えて罵倒コメントを送り続ける……私に罵倒コメントを送ってくる者たちよ。これを“理不尽で傲慢な逆恨み”というのだ。悪いのは自分から喧嘩をふっかけた君たちのほうであり、私が敵意を持たれるいわれはない。
そしてもしもこの文を読んでからも私に罵倒コメントを送ってくるようだったら、今から教えるお釈迦様の言葉を反芻して人生を見つめ直してくれ。
『他人のあやまちは見やすいが、おのれのあやまちは見がたい』
そういえば、中傷には中傷でお返しする私のスタイルに『メシア失格だわ!』と憤激する女性がいた。
彼女はどんな中傷を浴びせられようと、けっして中傷で対抗してはいけないという理念を持っているらしい。
が、だ。その理念は自分オリジナルものなのだろうか?それとも親や先生に教わったものなのだろうか?それともキリストやガンジーの影響なのだろうか?おそらくふたつ目と3つ目の可能性が高いだろう。
中傷には中傷で対抗してはいけないという理念を持つ女性よ。あなたの親や先生、さらにはキリストやガンジーより、もしも私のほうがすごかったらどうします?(笑)
なにはともあれ、世の中には実に多士済済、多種多様、千差万別、十人十色、いろいろな感覚、価値観、理念の人がいるということである。ブログ生活最大の大事件“パントさん事件”によって、そのことを改めて深く痛感することとなった。
私のこの記事をきっかけに多くの人々が明確な自覚に目覚め、自分はもちろん、他人の姿も広い視野から冷静に見つめることができる人間に進歩していってもらいたい。
ところで、“パントさん事件”によってわかったもうひとつのこと。それは人間とは祭り事が好きだということである。
ひとりのブロガーがひとりのプロガーを論破してブログ界から追いやった。これだけの出来事にあれだけ多くの人々が血沸き肉踊る大興奮を爆発させたのだから、本当に人間とは事件やスキャンダルが大好きな生き物なのだということを改めて痛感した。
しかし、本当の大事件は、これから起きることになる。私のこのブログが総合ランキング1位になったときから、人類最後の大事件が幕を開けることになる。詳しいことは……1位になったときに説明します。