心の安定のための思考法 第13回 良い心を引き出すシンボルとは | 上祐史浩

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         心の安定のための人生哲学 第13回
          良い心を引き出すシンボルとは
 
 今回も引き続き、心を変えるための知恵についてお話しします。

 今回の一つ目は、シンボルについてです。シンボル、日本語でいえば象徴。あなたの良い心を引き出してくれるものです。それを意識したり、見たり、聞いたりすると、心が落ち着つくとか、温かい心(慈悲の心)が引き出されてくるとか。

 これは、何か特定の物があるわけではありません。人によって違って良いのです。また、なければならないというものでもありません。

 いわゆる仏像や仏画は、仏教徒にとってのシンボルだと解釈できます。ブッダとは慈悲の心を持つと言われますから、慈悲の心の象徴です。

 また、美しい自然がシンボルになる人もいるでしょう。一定の図画が、そうなる場合もあります。特によくあるのが、ユング心理学などが説く円形(曼荼羅)を基本としたものでしょうか。

 見るものに限りません。美しい音、聖なる音など、五感によってとらえられるもの全体の中に、シンボルとなる可能性があるものがあります。

 しかし、これは、仏像や仏画が、仏陀であるとか、神であるという意味では、決してありません。私が言うシンボルとは、偶像崇拝ではありません。

 私たちの良い心は、当然、私の中にあります。これを仏教(特に大乗仏教)では、全ての人が持つ「仏性」(未来に仏陀になる可能性)と呼んでいると私は解釈しています。

 そして、私たちの中に潜在している良い心を引き出す作用を持つものが、外側のシンボル・象徴物です。シンボル・象徴物自体は、仏像や仏画であれば、金属・木・紙に過ぎません。当然、仏陀や神ではありません。

 しかし、それを見た時に、私たちの意識には、良い心が引き出されるものです。すなわち、単独では、単なる物ですが、人の五感と意識と組み合わさると、人の意識から、よい心を引き出し現すものですね。

 なお、いわゆる特定の宗教・宗派は、自分たちの神・教祖・経典(その名前や姿かたちを表した図画)が、シンボルであると言うことができるでしょうか。

 私の解釈では、そうではありません。宗教では、それらが、私が言うシンボルとは違って、「崇拝対象」と位置づけられて、1.唯一絶対のものとされ、2.その信者全体に義務付けられるからです。

 そして、非常に多くの場合、他の宗教の「崇拝対象」を否定します。

 さらに現代の合理主義と矛盾するのが、宗教の一部において、本来は不完全な人間である教祖を絶対視・崇拝対象とすることでしょう。

 そして、仏像・仏画であれば、信者に聖戦を命じることはあり得ませんが、教祖は、命じる恐れがあります。こうした問題は、私の言うシンボルにはありません。

 あなた個人のパーソナルシンボルを何かしら持つことができて、より良い心を引き出すことにうまくなることができればと思います。

 ちなみに、私の場合は、仏像でいえば、聖徳太子ゆかりとされる、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像が好きです。日本の仏像の中で国宝指定を最初に受けた名像であり、教科書などのよく写真が載ることもありますね。

 また、自然の聖地では、好きなものがあります。このFBのトップの写真は、日本有数の山岳景勝地、日本のスイスと言われる長野県の上高地の景色です。

 しかし、聖地について話し出すと、きりがなくなるので、機会を改めて、この辺で筆をおくことにします。