宗教と宗教を超える道 第3回 意外な釈尊の素顔 | 上祐史浩

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              宗教と宗教を超える道 第3回
          意外な釈尊の素顔:宗教家ではなく哲学者
 
 
 私は、オウム真理教の中で、仏教に触れ始めました。その仏教は当然、輪廻転生、来世を説いていました。その中で、来世に地獄に落ちず、幸福な転生得るには、麻原と麻原が説く教えに従う必要があると説かれたのです。

 
 多くの日本人にとって、輪廻転生は、仏教の教義と認識されていると思います。実際にも、たとえば、日本で最多の檀家数を持つと言われる浄土真宗の教義は、南無阿弥陀仏を唱えることで、来世に極楽浄土に転生することです。

 
 そのため、オウム時代の私は、麻原の輪廻転生の教義は、仏教とその開祖の釈尊(ゴータマシッダルーダ)の思想だと考えていました。しかし、麻原・オウム信仰を脱却する過程で、釈尊の思想を改めて調べてみると、意外なことに気づくことになりました。
 
 
 まず、釈尊の時代のインドの宗教哲学と、釈尊本人が説いた思想に関する学術的な研究の結果としては、まず確かなことは、輪廻転生は、釈尊独自の思想ではないことです。
  
 それは、釈尊が生まれる前から、インドのヴェーダ聖典に基づく信仰の一部として輪廻転生とカルマ(業)の法則が説かれていたのです。これは、今現在はヒンズー教と呼ばれている宗教の流れです。

 
 次に、学術的な研究では、釈尊は、当時民衆に浸透していた輪廻転生を否定はしなかったが、強調はせず、現世=この世で悟りを得ることを強調したという見解があります。

   
 たとえば、釈尊は、他の宗教の人に、「肉体と霊魂は別か否か」と問われても答えなかったと言われています。これは有名な「無記」(どちらとも決めないという意 味)と呼ばれる釈尊の思想・姿勢であり、こうしたことを含め、釈尊には「現世志向」(=現実主義的な傾向)と呼ばれる思想傾向があります。

 
 実際、釈尊は、絶対神も、神による宇宙の創造も終末も説いておらず、自分を神の預言者だとも説いていません。逆に自分を崇めてはいけない、自分の教えも、疑って吟味した上で取り入れるようにと説いています。

 
 では、日本に伝わる神格化された釈尊=仏陀は何か。それは、釈尊が死んだ後に、人々が、釈尊を絶対化したのです。それは、釈尊の死から500年前後を経て誕生した大乗仏教の経典では顕著となり、有名な法華経などは釈尊を永久の絶対存在とみなしました。

 
 この大乗仏教は、学術的な研究では、先ほど述べたヒンズー教とお互いに影響を与えあったもので、その中には、輪廻転生の思想が、その絶対の教義として取り入れられています。それだけでなく、ヒンズーの神様も、仏教の神様に変容されて、取り入れています。

 
 そして、日本が仏教を取り入れた聖徳太子の時代の前後に、日本に伝来したのは、この大乗仏教だったのです。そのために、日本人にとっての仏教は、絶対神のような釈尊と、輪廻転生を絶対の教義とするでした。

   
 その後、鎌倉時代にできた日本独自の新しい仏教宗派の中には、先ほど述べたように、阿弥陀如来の真言を唱えて祈れば、極楽浄土に生まれ変わると いった思想もありました。これは、イエスを信じることで、天国に生まれ変わることができるとするキリスト教と教義構造がよく似ているので、キリスト教の思 想の影響を受けたものとも言われています(いわば阿弥陀キリスト教)。

 
 こうして日本人が、絶対神のごとき釈尊を信じる中で、近代になって、西洋の学者が、釈尊自身の思想=初期仏教の研究を始めました。驚いたことに、彼らに は、それは宗教ではなく、人生哲学に映りました。絶対神(God)も、神の預言者も、宇宙の創造も、宗教らしいことは、何も説いていないからです。

   
 さて、こうした釈尊の思想は、死の恐怖に対して、どのようなことを説いているのでしょうか。前にも述べたように、輪廻転生思想を否定はせず、しかし強調 せずに、現世で悟りを得ることを強調した釈尊の初期仏教の思想は、どのように死の恐怖に対処するものだったのでしょうか。

 
 なお、私は、釈尊が来世について全く説かなかったと言っているのではありません。初期仏教の経典の中にも、来世に言及したものがあります。

   
 ただし、そもそもが、釈尊が何を説いたのかは、正確には知りようがないという事実があります。というのは、釈尊自身が書いた経典がなく、釈尊の死後に、 釈尊の弟子たちが釈尊から聞いたとする教えを暗唱しながら伝えたものが、初期仏教の経典となって、現在に伝わっているからです。

 
 よって、その中には、釈尊の真の直説と、後世の改ざんの双方が含まれていることが予想されます。そのため、釈尊の直説の可能性が高いとか、低いといった 推測は、初期仏教の学者の方ができると思いますが、もはや完全な区別はできないのです。

 こうして、何が釈尊の直説か否かに、余りにこだわることにも意味があ りません。

 そこで、本来の目的である、死の恐怖を乗り越える話に立ち戻って、私が、初期仏教を含めた仏教の思想を学んで、自分なりに考えた結果として、神や教祖とその来世と教義などに頼ることなく、死の恐怖を乗り越えるに役立つと思う思想について、次回にお話ししたいと思いま す。