少し前の話になるけれど、休みを利用して岩手県へ行ってきた。


震災があってから今年はすでに3回も岩手を訪問している。

親族がいるからということもあるけれど、そのたびに現地のエホバの証人たちと交わることが出来ているのだから、本当に貴重な経験をさせてもらったと思う。

彼らは実に色んなことを僕に教えてくれた。だから今は、僕があの場所で感じた全てに感謝したいと思う。


ただ、沢山の事柄を経験したけど僕が見つけたのはたった1つのこと。
それは始めからあったもの、でもみんなが忘れてしまいそうなもの、すでに忘れてしまったもの。

それはなにかというと、本当の意味で愛を知るということ。がむしゃらに欲するだけのことではなく、すでに受けているはずのものに目を向けるということ。


斯くて、さいしょに彼らが見せたのは弱さだった。

僕が見たのは彼らの涙。
呻きや悲しみ。そして疲れはてた表情。



1回目の訪問は5月だった。東北自動車道が再開通したすぐあとで、現地の状況はというと、まるで戦争がおきたかのように全てが滅茶苦茶になっていた。

さながら戦場と化した都市で爆撃を受けたかのような歪な残骸だけを残したショッピングセンター。

百人ぐらいは収容できるであろう屋根まで津波で破壊された大型の体育館。

捻られ、あげく捻切られたような形容し難いいかたちの車両の山。

そこはありとあらゆる負の雰囲気が満ちていた。

もし、二度と見たくない光景を挙げるとするなら、僕は間違いなくこの景色を思い出す。


そこに残された仲間達はみな泣いていた。
家族を失い、友を失い、家を失った。


そんな何もかもが残されていないように思えた絶望のさ中、王国会館の再建設プロジェクトが始まっていた。


といっても、まずは荒れ果てた場所を片付けなくては土台すら作れないので、僕らはひたすら掃除を始めた。

遥かに続いているように思える、かつては舗装されていたはずの瓦礫道を、僕らはずーっとずっと掃除し続けた。


王国会館建設プロジェクトは自分たちの事しか考えてない利己的な活動だったなんて的はずれな意見もよく見るけど、公道を綺麗にした僕らの掃除は地元の人たちからの注目の的になっていた。


掃除している間、殆どの仲間たち、特に姉妹たちは皆泣いていた。
しかしその涙は一様に強い決意を含んでいた。


「このままでは絶対に終わらせない」



仲間たちの燃えるような熱意の先には、確かな希望が見えていた。


僕が携わった作業はほんの少しだったから、このあと王国会館が建つまでどんな経緯があったかの詳細は分からない。


けど、いつくるか分からない余震の恐怖に怯えながら、無責任な専門家の意見に戸惑いながら、ついに王国会館は完成したようだ。


2回目に僕が現地に行ったとき、王国会館はすでに完成していた。


その見慣れた外観をみたとき、僕は感動を通り越して奇妙な感想を持った。


「こんなことが本当に可能なのか」
と率直に感じたのだ。


遥か遠くまで続く砂利と瓦礫道を掃除していたときは正直、この場所にもう一回会館を建てるなんて不可能なんじゃないかと感じ、ひたすら途方にくれた。


しかしいま目の前に、遥か遠くにあった目標がある。

しかも王国会館以外は相変わらずの瓦礫だらけの光景。


とにかく驚いた。


人間は素晴らしい。

仲間同士の絆は美しい。


そしてクリスチャンは確かに神に愛されている。

素直にそう感じた。


その時もまた、仲間たちにあった。

彼らにもう弱さなど見えなかった。



彼らの目には
希望があった。
喜びがあった。

そして、仲間への感謝に溢れていた。



彼らはもう泣かなかった。もう前に進み始めていた。

自分たちが受けた祝福を糧に希望の音信を携えて、砂利道のなかを歩き出していた。

その熱意は美しかった。


同時に、建設プロジェクトを支えた他の仲間たちのクリスチャン愛にも感服させられた。


物資の供給はもちろん、新たに出来上がった王国会館の第2会場には日本中から寄せられた仲間への愛に溢れたメッセージや贈り物が沢山保管されていた。

そのすさまじい量といったら、まさに度肝を抜かれるほどだった。

エホバの証人は自分ではない誰かを愛することを糧に生きる、ねぎらい星人だ。



エホバの証人は愛を示し合う点で主のご命令のもと確かに一致していることを示してみせたのだから。


そう考えると、さっきも少し触れたけど、この再建設プロジェクトに関連して「災害救援委員は全くの役立たずだ」とか「世界的な業の寄付は支援の為にじゃなくて、本当は何に使われるかわからないから寄付しない方がよい」などという、呆れるほど的外れな意見が散見されるけど、そういったことを言う人たちに聞いてみたい。


日本支部や統治体の兄弟達が、まだ一般道も殆ど機能していないのに、仲間の霊的な必要を顧みる為に命懸けで被災地に入り現地の仲間を励まし続けていたとき、

あなた達は一体何をしていたのか。


建設委員の兄弟達が、ぐにゃぐにゃになったガードレールをなんとか力ずくで直していたとき、

あなた方は一体どこにいたのか。



なるほどあなた方の意見は一見正しく見えるかもしれないし、現実味を帯びているように感じるかもしれない。

けれど、仲間の苦難に助けになりたいと必死に働く人の汗を、涙を、苦労を知らずして安全な横道から避難の石を投げ続けるあなた方は、一体何者なんだ。


もうそんなひと達は放っておいて違うところを見ることにしよう。
何故なら人は目に見えるところでしか判断しようとしないけど、


神は本当の意味で


見ていて下さる。



聞いて下さる。



助けて下さる。



愛し続けて下さる。


このことを今回の災害による経験から学ばせて貰えたのだから。



ただ、沢山のことを経験しても結局気がついたのは1つだけ。


それは、始めからあったもの、みんなが目を背けるもの。


それは、本当の愛を知る必要があるという事実。


その真意は、すでに自分に示された愛を感じるということ。


愛を知るためにどこにでもあり余ってる快楽という偽りの愛を手に入れようとする人間の欲望に抵抗するということ。


愛を欲するあまり、他人の愛情を嫉み、何もかもをも奪いたくなる衝動と戦おうとすること。



誰かだけが持っているんじゃない。どこに売ってあるわけでもない。


なるほどあらゆる人たちがひとを差し置いて愛されることを願っているように見える。


けど、愛を欲するなら、まず愛を示す喜びを知らなきゃいけない。

そしていま、愛を示す機会は全ての人に無限に開かれている。



神の愛は無限だから、この扉が閉まることは決してないだろう。