いやあ、新潟は寒かった…。

けれど戻ってみれば、東京も寒かった(笑)。

ということで新潟出張から帰ってまいりました。


昨年の新潟行きでは仕事の狭間の僅かな時間を利用して敦井美術館 を訪ねましたが、

今回は新潟市會津八一記念館を覗いてみたのでありました。


そも会津八一とは歌人であって、

それももっぱらに奈良の古えを詠んで全てをかな書きで記す…てなことぐらいしか知らず。


ただ、昔、教科書で作品のいくつかを目にしたときに

古典やら短歌やらにいささかの関心もない頃合いだったにも関わらず、印象には残り、

以来気にはかけておった人物なのですね。


(といっても、その後はほったらかしで作品に近寄ることもありませんでしたが)


という背景?でもって訪ねてみた新潟市會津八一記念館。

だいたい新潟とどういう関係が?などと思いましたら、新潟出身だったのですなあ。


子供の頃から俳句を嗜む一方で、良寛の歌や「万葉集」に親しんだとは

「栴檀は双葉より芳し.」かと思うところでありますね。


ですが、転機は新潟で坪内逍遥 の講演会を聴いたことだったようです。

この時の演題がどのようなものであったかは分かりませんですが、

感銘を受けた八一少年はやがて上京し、東京専門学校に入学。

逍遥に教えを乞うたことはもちろん、小泉八雲から英詩を学んだりもしたそうな。


よほど教授陣の影響力大であったのか、八一の卒業論文はキーツ研究で

しかも卒業後は郷里の学校で英語の教師になったのですなあ。


と、ここでまた転機というか、本家帰りというか。

奈良へ旅したことを契機に仏像を愛で、また短歌をものすという方向へ向かったと。


やがて逍遥の招きで早稲田中学の英語教員になりますが、

若くして教頭を任された際の担当教科は何と「修身」。

時代は明治・大正ですから「修身」と聞けば、自ずと中身が想像される気もしますが、

八一の「修身」はかなり型破りだったようで、生徒が楽しみする教科だったそうですから。


具体的な内容を知るところではないながら、どんな話だったのか、気になるところですね。

どうも美学や人間学みたいな要素があったんじゃあないかと想像しますけれど。


・・・と、思わず会津八一の前半生をつらつらと書いてきてしまいましたが、

これは新潟市會津八一記念館の展示によるというよりは、館内で流れていたビデオから。


仲代達矢 を八一役に起用して作ってあるのは力の入れようが窺えますけれど、

僅かな時間を利用してとは冒頭に申した通りながら、このビデオをたっぷり30分見てしまい、

展示の方には余り時間を割けませなんだ(展示室はさして大きくないのですが)。


會津八一 没後60年 企画展「會津八一と刻字」@新潟市 會津八一記念館

とはいえ、展示室では没後60年の企画展として「會津八一と刻字」をやっておりました。

歌の人はまた書の人でもあるのか、八一もまた書を嗜んだ…と言っても、

かなり独自の書法であったようにも見受けられますなあ。


展示は「刻字」とありますように、八一の揮毫を彫師が扁額に仕立てたりしたものがいくつか。

その中での嚆矢と思われるのは、恩師坪内逍遥から頼まれた「双柿舎」の文字でしょうか。


依頼されたものの、最初は良寛の書字から抜き出してこようとしてうまくいかず、

自分で書くことにしたらしいですが、相当に苦労したようす。


それでも、その後にいろいろな扁額を手掛けて、

思い出してみれば新宿・中村屋のものも八一作品でしたですね。

中村屋サロン美術館 に展示されてましたっけ。


とまあ、そんな具合に興味をほったらかしにしていた会津八一を

改めて気に掛ける機会となった記念館詣ででありました。


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