群馬県立近代美術館 でのお楽しみの後は
レンタサイクルを駆って倉賀野駅まで戻ったわけですが、
その道筋のほとんどはすいーと続く一本道、それが「日光例幣使街道」であったとは。
日光東照宮に参るべく京の都を発した例幣使の一行は中山道を通り、
途中の倉賀野宿はずれで枝分かれする道を辿っていった。
これが日光例幣使街道でありますね。
それだけに往時の倉賀野宿はそれなりの賑わいでもあったということですが、
この辺りも探訪したくなるところながら、それはまたの機会ということで。
さして待つでなくやってきた八高線に乗って、ひとつ先の高崎へと向かったのでありました。
高崎ではまず駅東口のペデストリアンデッキからそのまま繋がったビルの中にある
高崎市タワー美術館
を訪ねたのでありました。開館15周年記念として、
これまでのアンケート回答による収蔵作品・寄託作品のランキング付けを実施、
その上位作を展示しているというので、どれどれと(会期は11月6日で終了)。
一点、一点を見ていきながら、その作品のランキングをも見て
「ほお~」と思ったり、「ふ~ん」と思ったり。
この美術館が近現代の日本画専門館であることを一応注釈した上でですが、
概観して思うところは「日本人は桜が好きだのぉ…」ということでしょうか。
ですが、天邪鬼的な感想で言えば「桜を描くのは難しいのぉ」と。
桜はありのままで綺麗なものですから、ある程度の技量をもって写し取ると
いわゆる「きれいきれい」な画面が出来上がることにもなろうかと。
ですが、問題はその先なのではないですかね(といって、自分には描けませんが)。
妙な例えになりますが、パッと見の譜づらはやさしくて、
小学生がリコーダーで吹くこともできるモーツァルトの曲。
それだけに何となく聴き流してしまったりもするのですけれど、
先日NHK「クラシック音楽館」で放送されたウィーン・フィルによる「フィガロの結婚」序曲は
今さらながらとも思えるこの曲に思わず膝を乗り出しそうにさせる演奏だったのですな。
見た目に簡単なモーツァルトの曲をそんなふうに聴かせることの難しさといったものが、
桜を描くときにはあるのではなかろうかと(なんのこっちゃ?)。
ところで、個人的評価とランキングを見比べて思うところは
予想以上に乖離があるなということでしょうか(天邪鬼と言ってますから当然かも)。
「これは!」と思った2作がいずれもランキングでは下位の方だったのでして。
ひとつは岩澤重夫「燦」、もうひとつは角田信四郎「秋映」という作品ですが、
前者は日輪が描かれている海と想像することはたやすいながら、
抽象画的な作風も持っていたという作家だけあって、
むしろ淡い色調をタイル状に置いたグラデーションがリズムを感じさせるなあと。
後者の方は舗道に落ち葉が落ち敷かれたさまと見れば、一見きれいそうながら、
実は踏み拉かれた汚れ、破れが感じ取れるようでもあり、これを都会の情景と見立てれば
ここに交錯する人間模様がそのまま擦り切れ朽ちた葉となって落ちているとも思えるような。
まあ、勝手な想像ですが。
…と書いてきて思うことではありますが、日本画を眺めやるには
素直に花鳥風月を愛でる心で臨むのがいいのかもしれませんですねえ。