駅前から続く石畳(といってもきれいに整備された最近の敷石)の道をたどり、
鯖湖湯を通り過ぎてもう少し。飯坂の温泉街
では一番の観光名所であるらしい
「旧堀切邸」に到着となります。
江戸時代に大庄屋を務め、財を蓄える一方で飢饉などの際には近隣に援助の手を差し伸べ、
こうしたことを通じて士分(郷士)に取立てられたのが堀切家であるのだとか。
その当時の上飯坂村は白河藩の分領とされていたようですけれど、
白河のお殿様というのが有名な松平定信でありますね。
老中時代は江戸詰めであったでしょうけれど、
これを辞して白河に戻った折に定信は領地巡察の一環として飯坂に立ち寄ったそうな。
先に引いた芭蕉の言葉ではありませんが、未だ湯宿も整っていなかったとなれば、
大庄屋たる堀切家に滞在することになるわけですけれど、
定信はその時のことをこんなふうに書き残しているそうな。
夕つ方飯坂に着く。温泉あしからず。されども庭狭小にして居所もひろからず。
ちなみに現在の「旧堀切邸」の屋敷面積は1200坪余りで、
1880年以前には約2倍以上あったというからには2500坪程度となりましょうか。
庶民感覚からすれば十二分に広いと思うところが、
お殿様感覚では「居所もひろからず」となるのですなあ。
自ら進めた寛政の改革では質素倹約が求められたのではなかったかと思いますが…。
とはいえ、舟遊びをしたり茶会を開いたりという飯坂滞在に定信はそれなりに満足したのか、
出立前日には自ら筆を揮い「扁額かいてあるじにやりける」ことにしたと。
定信自筆の扁額は現存しているのだそうですよ(これはレプリカで、実物は博物館に寄託)。
「隠密の後ろにさらに隠密を付ける」と言われた定信の神経質で疑り深い気性などにより…
と、Wikipedia(「寛政の改革」の項)に書かれてあったりする定信のイメージとは合わない
なかなか豪放な筆(上手とも言えない?かな…)ではあるなと思ったりしたですよ。
というような旧堀切邸ですけれど、現存するのは1880年の大火後に建て直されたもの。
時は明治ながら擬洋風てな方向には走らず、和風でかつ近代的を目指したようですね。
デザインにも凝ったようすが伺えます(と、これはボランティア・ガイドさんに聞いたこと)。
と、これは母屋の中でしたが、敷地内に建つ十間蔵(福島県内では最大最古という)で
面白いものを目にすることができました。
十間蔵の引き戸につけられた木製の戸車。
ここに特別というものでもないでしょうから、他でも見られるものかもしれませんが、
これまであまりこの辺りに目配りしてなかったもので。
すり減りやすいかもしれないながら、交換はしやすそうで実用的なのでしょう。
ふと気付けば堀切家の人々に触れておりませんでした。
士分を得た豪農・豪商として江戸期を乗り切り、明治になってから出た人物として
衆議院議長や第二次大戦開戦時の駐イタリア大使(つうことはムッソリーニ政権下ですな)を
務めた堀切善兵衛、東京市長や戦後の幣原内閣での内務大臣を務めた弟の善次郎などが
いるそうです。どこかしらで名前を見聞きしていてもいいような人たちのようですね。
さて、お次は温泉街からはいささか離れたところになりますけれど、
歴史的にももそっと遡った話につながる場所を訪ねることにいたします。