ちょいと立川に立ち寄って、涼みに(?)伊勢丹立川店に入り込んだところ、
「藤田嗣治 素描と版画」展をやっているとのポスターが目に止まったのですね。
ついでだから覗いてみるかと会場に足を運んでみますと、
エスカレータで会場階に上がるまでの間に「これはきっと…」と思ったとおりに
展示即売会というのが実態でありました。
幸か不幸か、展示室に足を踏み入れたときには来場者は他に誰もおらず、
一枚一枚眺め始めるや、それまでの手持ち無沙汰を取り返すがごとくすすっと忍び寄る係員の足音。
まあ、人相風体からして「きっとこいつはひやかしだな」くらい想像が付きそうなものですが、
先に「幸か不幸か」の「幸いか」の部分としては、いろいろ説明してくれたということになりましょうか。
これは「魅せられし河」というシリーズものの版画でして、
銅版画によって描き出された線の上に手彩色を施したものになります…とか、
こちらは版画の中でも最後まで藤田の奥様が所蔵されていたものがオークションに出されたもので、
他の版にはない直筆サインが入っております…とか。
展示即売会ですから、それぞれの作品には当然にして値段が付いておるわけですが、
そんなふうに説明されたところによる違いを考え合わせると、
「だから、こっちの方が高いのね…」と分かったりするのでありますよ。
肉筆油彩(といっても藤田のことですから、実に淡いですが)は一点だけでしたけれど、
さすがに版画と違って正しく一点ものであるだけに5千万円だったか、
そんな値段が付いておりました(フライヤーの一番上に大きく配された作品です)。
「5千万あったら、家が建つ」と考える向きもありましょうから、
要は投ずる費用に対してどんな満足がこちらに帰ってくるかを考えて
見合う、見合わないを考えるといったらいいのでしょうか。
ただ、ふと思ったことですけれど、
作家が存命であって、リアルタイムで作品制作が続けられている場合、その作品を購入するのは
「作品が気に入った。家で毎日見られるなんてうれしい」ということもあるとして、
それだけではないのではと。
気に入ったと思う作品に金銭を支払うということは、
出来上がっている作品、それを仕上げるに要した労力への対価であると同時に、
その作品を作り上げた作家に対して「次のも期待してますよ、素敵な作品を作ってくださいね」という
応援の要素が入っているような気がしますですね。
と、書いていて「ハーブ&ドロシー」を思い出しましたですが。
これは何もアート作品に限ることではなくって、新刊書を買うというのも同じようなことなのかも。
新刊書の値段が適正なのかどうかは判断しにくい(相場感はあるにしても)中で、
ちょっと待ては古本屋に出るかもしれない、図書館で借りられるかもしれないとの選択肢でなく
新刊で買うというのは著者に対する応援(初物買いならこれからの期待)の要素が
入っているのではないかと。
ここからは書きながら思いついたことですけれど、
全く同じことはいろいろな買い物に言えることだったのですね、気づかずにいましたが。
野菜を買う。作ってくれた人には「またおいしい野菜、作ってくださいね」という気持ちで支払う。
牛乳でも、靴でも、傘でも、紙でも、鉛筆でも、何でも同じと言えなくはないですよね。
ただし、ここで大事なのは相手の顔が見えるというか、そういう点でしょうか。
とにかく大量に機械で生産されているようなモノに対しては、そうは思いにくいでしょうし。
値段は安いが良しとされる世の中にあっては、
単にモノを買う対価としてしか意識しない日常ですけれど、
お金のやりとりに少しだけでも人肌のぬくもり要素が加わるような気がしますですね。
と、藤田の版画とはおよそ関わりのない話になってしまいました…。