こうしたことも巡り合わせといいましょうか、

何とはなしに「そういえば、今は何かの展覧会、やっているのかな…?」とHPを見てみれば、

「津島家寄託 太宰治資料」展なるものをやっており、6月28日までと。

何はともあれ出掛けたみた三鷹市美術ギャラリー でありました。


津島家寄託 太宰治資料展@三鷹市美術ギャラリー


ご存知のように、東京・三鷹は太宰治が長らく住い、たくさんの作品を生み出したところで、

また駅近くには入水した玉川上水が流れているという、思い切り太宰ゆかりの地。


そうした経緯もあらばこそ、津島家に残された資料が三鷹市に寄託され、公開の運びとなった。

とはいえ、これより以前から主だった資料は日本近代文学館などに寄贈されてきたようですので、

こう言ってはなんですが、三鷹市に寄託されたのは「主だってない資料」となりましょうか。

ところがですね、これが結構興味深いのでありますよ。


ところで三鷹の住いですけれど、

甲府から太宰自ら足を運んで見つけ出した新築の借家物件であったと言いますから、

それなりに気に入るところがあったのでしょうね。


場所が三鷹となった背景は、妻・美知子の実家である甲府にも、師と思う井伏鱒二の住む荻窪にも、

また「出版社の集まる神田や新宿」にも中央線一本で出られることであったよう。


本当はもそっと井伏宅に近い辺りを狙っていたのでしょうけれど、

東京の宅地化がどんどん西郊へ進んでいたこともあり、三鷹で折り合いがついたようですね。

時に昭和14年(1939年)、家賃は24円だったそうな。


生活ぶりは「ヴィヨンの妻」などで想像できるところで、

とても贅沢言える暮らしぶりではないように思われますけれど、

間取りとしては6畳、4畳半、3畳の三間であったとは「大したもんじゃないの」と。

ただし、太宰はいちばん広い6畳間を書斎にしてしまったようですが…。


それでも最初は家族での慎ましい生活にそれなりの光を見ていたか、

自分で「津島修治(太宰治)」と書いた表札を見てそんな気がしたものです。

菓子折りの蓋を利用して作ったぺらぺらなものですが、よく取って置かれたものですねえ。


太宰の三鷹住いは戦中の甲府疎開を挟んで戦後にも及びますけれど、

そうした間にだんだんと売れっ子になった太宰はたくさんの作品を残すわけですが、

それと関わりのある展示資料というのが「納税告知書」の類かと。


昭和24年(1949年)4月の読売新聞にある長者番付文士編的な高額所得者リストによれば、

吉川英治 が年収250万円でだんとつ1位のあと、今ではあまり目立たない作家の名前が並ぶ中、

太宰治は堂々4位タイの年収100万円。

そりゃあ、税務署も目を付けようというものです。


ですが、太宰は武蔵野税務署長に宛てて「審査請求書」なるものを書いている。

曰く「…旅行、探訪、参考書、資料集め、等の著述業に必ずつきまとふ諸支出」だらけで

とても払えません。我が「茅屋」を見に来られたし…みたいな内容なんですな。


かつて芥川賞の選考をめぐって書いた、川端康成への泣き落としの手紙は有名ですけれど、

これまた同じ論調と言いますか、「どうして自分のことを分かってくれんのだ?!」という意識に

溢れておりますなあ。


その一方で、妻・美知子の回想によりますと、

「自分のように毎日、酒と煙草で莫大な税金を納めている者が、この上、税金を納めることはない…」

てなふうに、自宅では嘯いていたというあたり、どっちにしても「いかにも太宰」ではなかろうかと。


納税の方は、結果的に太宰の経費控除の主張が認められたのか、3割減で確定。

ですが、それでも結局のところ払い遅れて延滞金を併せて支払ったようでありますよ…。


そうそう、太宰の作品作りに関してですけれど、

口述して妻・美知子に書き取らせていたこともまたよく知られてますが、

こうした点ではかつて「高等女学校で教鞭をとった」こともある才媛の美知子を信頼していたのかも。


これまた美知子の回想ですが、「駈込み訴え」という作品を筆記したときのこと。

「…蚕が糸を吐くように口述し、淀みもなく、言い直しもなかった」と

まさに一気呵成であったようす。


「申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷い。酷い。…」と畳み込む語り掛けは

こうして出来たのであるかと思うと、ちと軽く唸ってしまいますですね。


それにしても、太宰の口述を「蚕が糸を吐くように」と言ってのけた美知子もまた凄い。

小説家・太宰治の性の一端を垣間見る気がしてきます。

太宰はやっぱり太宰ですなあ…。