新国立劇場の、大劇場(基本的にはオペラ・バレエ専用劇場)ではなくして、中劇場で

ヘンデル作曲の歌劇「ジューリオ・チェーザレ」を見てきたのでありますよ。


二期会公演「ジューリオ・チェーザレ」@新国立劇場中劇場

バロック時代のオペラを見るのは初めてでありまして、

しかもジュリアス・シーザーの話なら戸惑うことなく付いていけようと

わくわく感が高まるところでありました。


ピットに入るオケからして、ピリオド楽器が連なって序曲(?)が始まるや、

その鄙な音色にいや増す期待。


ですが、幕が開いて颯爽とジュリアス・シーザーが登場!?となったところで、

「おや?これは?」と。


ヘンデルの昔であればカストラートが歌ったところやもしれませんが、

今ではメゾ・ソプラノが当てられて、ようするに凛々しくも女性がシーザーとして登場。


まあ、それだけならば「宝塚?」で済むわけですけれど、

その姿がどうにもアニメのコスプレかくやの衣装で現れるわけですね。

クレオパトラは水色の髪で、かつてであれば「かわいこぶりっこ」みたいなしぐさをしておるという。


開幕前から予兆はあったですけれどね。

舞台がエジプトということだからなんでしょう、ワニの面をかぶった数人が

パントマイム的な動きで前座のようなことをしていたですから。


思い込みながら、格調高い歴史劇と思っていたことからのギャップは容易に埋まらず、

途中二度あった休憩の度に「帰ろかな」とも思ったり。


それでも一度目の休憩のときに改めてプログラムを見るや、

本公演は「二期会ニューウェーブ・オペラ劇場」なのであると知ったのですなあ。

要するに、こうした演出が「ニューウェーブなのだな…」と気付かされたのでありますよ。


そうした受け止め方をしてからは、それまでのところで(演出家氏には失礼ながら)

意図をつかみかねて、どうも軽薄、おふざけの域との違いを整理できないでいたのを

「ニューウェーブ」という言葉に押し込めて見ることにしたのと、

劇の進行に従って、ヘンデルの音楽密度がぐぐっと上がったがために

ふんだんに遊びを放り込むことができなくなったのか、個人的な評価も幾分穏やかに。


結果としては、クレオパトラ役(その姿かたちはともかくも)のソプラノ、

そしてセスト(ポンペイウスの息子)役のソプラノらの歌唱に支えられ、

それこそ「結果オーライ」というところまで落ち着いたのでありました。


オペラ全体としてというよりも、

ヘンデルの技巧を凝らしたアリア、またしっとりとしたアリアを聴くという点では

満足感ありということにはなりましたですよ。


元来、ヘンデルの歌には「オンブラ・マイ・フ」とか「私を泣かせてください」とか

しっとり感で有名なものが結構ありますものね。


ところで、ヘンデルは(ロンドンの外タレ・ブームに乗って儲けられると思ったか)

長らくドイツの地元を留守にしてロンドンにいついてしまいますけれど、

そんなところへやおらイギリス国王ジョージ1世となって現れるのが、

なんと古巣の主人であるハノーファー選帝侯。


不義理をした古巣の主人が帰化先の国王になってやってくるとは

夢にも思わなかったヘンデルでしょうけれど、ここはやはりご機嫌をとり結んでと

「水上の音楽」やら「王宮の花火の音楽」やらイベント系の賑々しい音楽でなだめにかかります。


もしかして、「エジプトのジュリアス・シーザー」とも言われるこのオペラもまた

その祝祭的な音楽はジョージ1世のイギリス宮廷を盛り上げるために書いたのかも。


ですが、最後の最後、トロメーオ(クレオパトラの弟プトレマイオス)を撃ち果たした後の

シーザーとクレオパトラが互いに互いをやたらに褒め合うあたり、歴史劇の終幕というより

あたかもバカップルの新婚家庭のような状況が展開する。


ドイツから来て英語が話せない王様ジョージ1世はイギリスで人気がなかったと言われますが、人気の無さのもうひとつの理由は、離縁した妻を長きわたり幽閉(死ぬまでの32年間)していた、

こうした辺りにあったとも言われているようで。


ヘンデルがこの歌劇を作曲した頃は未だ元妻の幽閉状態は続いている最中、

華やかで変化に富んだ音楽が聴ける作品とはいえ、この音楽を果たしてジョージ1世は

どう聴いたか。


こうした音楽で暗に国王に不人気の元を糺す挙に出たとすれば、

ヘンデルの意趣返しとも、また忠実なるが故の苦言とも考えられなくはない。


とまれ、演出に戸惑った「ジューリオ・チェーザレ」ですけれど、

ヘンデルの音楽がオペラをその主なるもののひとつとしていることが

「なるほど」と思えるのでありました。