山梨市の横溝正史館 を訪ねるにあたって、横溝作品をひとつくらいと読んでみた「夜歩く」。
ですが、手に取る段階ですでに、「夜歩く」といえば横溝正史というより、
ジョン・ディクスン・カーの同名作品の方が思い浮かびやすいのではなかろうかと。


てなこと言いつつ、カーの「夜歩く」を読んだことがなかったものですから、
この際こちらも読んでみることにした…とまあ、そういうことでして。


夜歩く【新訳版】 (創元推理文庫)/ジョン・ディクスン・カー


とかく横溝作品には「猟奇的」てな言葉がつきまといますけれど、
カー作品の怪奇趣味ぶりもよく言われてところでありまして、
中学の頃だったか、近所の図書館にある創元推理文庫版のミステリーを
あれもこれもと読み漁ったことがありながらも、根が怖がりな者としては
カーの作品を敬して遠ざけておったような次第。


ですからタイトルこそ知っておりましたが、
あらすじも何も知らずに読み始めたところ、最初から「おや?」と。


たまたまにもせよ、このところ手にしたミステリーが、松本清張の「草」 も横溝正史の「夜歩く」も
神さま目線で綴られるのではなく、事件の発端から解決に至るまでを
渦中にいた特定人物が

手記にする形で、(それだけなら、ホームズ の活躍をワトソンが記すようなものではありますが)

この手記という形式をとることが作品としての大きなポイントとなっていたわけですね。


で、カーによる「夜歩く」もまた、そうした形で始まったものですから、
「まさか、またかよ…」との思いがよぎり、むしろそれに囚われてしまったが故に、
手記の「穴」を探すことに相当目が向くこととなって、結果を読み誤ってしまいましたですよ。


つまり、さすがに横溝「夜歩く」と外形的な同趣向ではなかったわけですが、
それはそれとしても、1948~49年に雑誌連載で発表された横溝作品は、
1930年に出たカー作品にヒントを得たのではないかと思えてなりませんですね。
(Wikipediaなんかには、そうした記載は全くありませんけれど)


ミステリーの内容をどれほど紹介してしまってよいのやらは難しいところですので、
差し当たり文庫発売元の内容紹介を引用して、話の大枠を想像してもらうとしましょう。

パリの予審判事アンリ・バンコランは、剣の名手と名高いサリニー公爵の依頼をうけ、彼と新妻をつけねらう人物から護るために深夜のナイトクラブを訪れる。だが、バンコランと刑事が出入口を見張るカード室で、公爵は首を切断されていた。怪奇趣味、不可能犯罪、そして密室。カーの著作を彩る魅惑の要素が全て詰まった、探偵小説黄金期の本格派を代表する巨匠の華々しい出発点。

そも、この被害者は「首を切断されていた」という点、そして(紹介には出てきませんが)

つけねらう人物から凶事を予告する手紙が届いていたという点、

さらに極めて重要な女性の存在という点などなどを考えてみれば
横溝作品がヒントを得るには十分以上の要素を包含しているように思うのですが、

いかがでしょう。


と、横溝作品との関わり云々はこのくらいにして、カー版「夜歩く」そのもののお話。
カーの作品は、上の内容紹介にもありますように「怪奇趣味」と同時に

「不可能犯罪」というのもまたキャッチフレーズ的に使われますですね。

この「夜歩く」では密室殺人が扱われます。


「バンコランと刑事が出入口を見張るカード室で、公爵は首を切断されていた」という部分ですが、
現場の部屋には出入口が二箇所あって、それぞれをバンコラン(探偵役)と別の刑事が見張り、
道路に面した窓は地上からかなり高さもあり、途中とっかかりもないことから上り下りは不可能な状況。


そこへ被害者となってしまう公爵が入っていったのは見かけられているものの、
その後は誰も出入りをしておらず、内部からの呼び鈴に応じてウェイターがカクテルを届けるため
部屋に入ったときにはすでに公爵は殺されていた。
犯人はどうやって侵入し、また逃亡したのか…。


結末部分には(先にも言いましたように外形的な部分で惑いがあったこともあり)
「ほぉ~、そうきたか」と、ミステリーの定石でもある「意外な犯人」が提示されます。
が、(横溝版「夜歩く」で感じたのを上回って)相当に無理があるなぁとも思いましたですね。


あれこれ言うとネタばれになりかねないので、

謎解きそのものでなくってストーリー展開の方に触れますが、
バンコランは当時の警察が持てる科学捜査技術を存分に使いながら、

自らの推論に確証を得ていくものの、科学捜査で知り得た分析結果であるとか、

また別途に配下の刑事に調べさせておいた証拠といったあたりを
最後の謎解きにおいてしか示さないのですよね。


エラリー・クイーン

「ここまでのところで必要な情報は全部提示したから、犯人は読者にもわかるはず」と
大団円を前にして「読者への挑戦」なる一文を載せていたことがありましたですが、
それに比べてバンコランは手の内を見せなさ過ぎなんじゃあないかと。


極めつけは、2件目の殺人が起こった際に発見された車の轍。これを分析して、
タクシー会社を特定し、乗せた人物まで特定していたことが示されるのは、

やはり謎解き段階なのですね。


やる気になれば、話の途中でこの部分の調査から特定の人物が浮かび上がり、
当然にして「怪しい」と読者に思わせておきながら、当該人物は犯人ではなく、
なぜそんなところにいなければならなかったかという合理的な説明が謎解きの過程で示されて、
「これに釣られるとは、読者も甘いね」とほくそ笑む作者…てなことにもできようものを…と
思うわけです。


面白くないことはないですが、やはりジョン・ディクスン・カーといえども
処女長編は頑張ってここまで…だったのかもしれません。


読んでみて、カーの怪奇趣味はいかにも西洋のゴシック・ロマンス 的であって、
横溝作品よりも個人的に耐性がありそうだと分かりましたから、
またいつぞや何かしらの作品を手にとってみるとしますかね。
そうすれば、もそっとカーの真価が分かるやもしれませんし。