伊豆富士見紀行 がもう一息で終わりになるところまで来ているものですから、

ついついそちら優先で書いていこうとすると、他のことが先送りすることになり…

ではありますが、ある程度は印象の薄れぬうちに記しておかねば忘れてしまうことに。


これもまたひとえに老人力の賜物でありましょうけれど、

そうした「忘れないうちに」というもののひとつ、

東京ステーションギャラリーで開催中の「プライベート・ユートピア ここだけの場所」という

展覧会のお話であります。


「プライベート・ユートピア ここだけの場所」展@東京ステーションギャラリー


副題として「ブリティッシュ・カウンシル・コレクションにみる英国美術の現在」とありますように

イギリス作家によるコンテンポラリー・アートが展示されておるわけですが、

ブリティッシュ・カウンシルというところはリアルタイムで活躍中の若手作家支援みたいなことも

やっているのですねえ。


作品としては、こうした展覧会によくあるように

「もしかして、鑑賞者は置き去り…」と思えてしまう、

つまり作家の思いは熱く熱く込められているらしきながら、

見る者がついて行けないというものもあり、

一方で「これは!」と刺激を受けたり、面白かったりするものもありの混在でありますね。

(まあ、とにもかくにも好みに合うかどうかという話ですが…)


そんな中で後者に属する(と個人的に考える)作品に

少々触れておこうかと思うのでありますよ。


まずは会場の冒頭を飾っていた(?)のがコーネリア・パーカーの作品。

(とはいえ、本展で予め名前を知っている作家はジム・ランビーだけでしたです、ちなみに)


地球上の著名な建築物が隕石の直撃を受けたらどうなるか…

これを地図帳(1枚ものの地図ではなく、昔使った帝国書院の、みたいな)の上に表現している

連作ものでして、隕石が落下する場所の名前を冠して「ミレニアム・ドームに落下する隕石」てな

タイトルがそれぞれに付けられていました。


わざわざ本物の隕石(のかけら)を熱し、地図帳上の目標物に押し付けて焦がすという

こだわりの制作方法でして、目標となった建物(が記された地点)は跡形もなく焼け焦げ、

地図帳であるだけに下の別ページにまで焦げが及んでいるのを見るにつけ、

実際の隕石であれば地層を抉って埋没するであろうとの想像をも呼ぶことになるのですね。


しかしまあ、冒頭からこれとなると全体的にSF風なのかなと思ったり。

そもそも詳細を余り知らずに足を運ぶ際のよりどころは上の本展フライヤーでありまして、

パッと見の印象で「宇宙戦争」のトライポッドのようだな…と思っていたものですから。

(フライヤーに使われた作品が何物であるかは、後に実際に見て分かりましたが…)


このコーネリア・パーカー作品は分かりやすい方だと思いますけれど、

宇宙からの隕石落下という、スケールの大きな話を地図帳の上に小さく展開しながら、

それでも焼け焦げた部分に見るレイヤーから想像を大きく(たくましく?)することができるとは

「お見事!」ではなかろうかと。


ただ欲を言えばですが、隕石が落下するに際しては

本体は大きいとして、そこからはがれた小さな礫がばらばらと降り注ぐのではなかろうかと。

地図帳の上でも、大きなクレーターの周囲にそのばらばらと散乱した様が見て取れるならば

よりリアルになってのではと思ったりしたものです。


お次に目に付いたのはサイモン・スターリング作「シャクナゲを救う」という写真連作。

シャクナゲは元々スペイン原産ということで、イギリスにとっては外来種になるそうですが、

固有種保存の観点からは外来種は駆逐対象になってしまうのは、洋の東西を問わないようで。


で、作者はスコットランドのシャクナゲを父祖の地スペインに還してやろうという

「シャクナゲ救助作戦」を展開し、そのプロセスをカメラに収めた…それが作品なのですね。

会場で配布されていた「鑑賞ガイド」には、本作に触れてこのようなことが書かれていました。

果たして故郷に帰されたシャクナゲは「助け」られたのでしょうか。そもそも人間の都合で持ちこまれながらも、そこになじみ生きていたものを、再び人間の都合で「故郷」に帰す意味とは。これを人間に置き換えて想像してみることはできないでしょうか。

非常に示唆的なコメントで、ついついいろいろと考えを巡らしてしまうやもですし、

取り分け人間に置き換えるとなれば、非常に政治的であったり、歴史的な側面にも

思いを致すことになろうかと。


ですが、この作品の眼目がそうした考えることを促すことにあるとすると、

写真連作という見た目の体裁はある意味どうでもいい副次的なものであって、

要するに「そもそもの発想がすべて」(必ずしもこれでなくてはという表現形式でない)という

ことになってしまうような気がしないでもない。


表現の形式自体を問わない、副次的なものであるてなことになってくると、

芸術のありよう、そもアートって何よ?てな気もしてくるわけで、ちと微妙に気がしてものです。

コンテンポラリーの世界には、こういう仕立てのものがままあるかもしれませんですね。


逆に「この表現形式でこそ」なのかな…と思いましたのが、

ケリス・ウィン・エヴァンスの「ソー・トゥー・スピーク(つまり)」という作品でしょうか。


白い大きな壁面の、かなり上方に

ダブル・コーテーションの開始記号と終了記号が間にある程度の余白を設けて掲げられている。

ただそれだけの作品ですので、足を止めることがなく素通りしていく方も多かったような。


ではありますが、作品解説に曰く

「(ダブル・コーテーション・マークの)それらの間のいかなるものも引用する」ということは、

ある程度上方に置かれていることから空中に浮遊していると捉えることができるわけで、

それこそいかなるものをも間に挟んでしまえるとのイメージに繋がりますですね。

やはり、これはこれでしょ!的なるものなのではないかと思います。


と、たった二作品ですでに長くなってますので、ちと端折って例のフライヤー作品へ。

本来のタイトルは「四代目エジャートン男爵の16枚の羽毛がついた極楽鳥」というのだそうです。

トライポッドのように思ってしまったのは、実は鳥のはく製だったのですねえ。


それにしても奇妙な形ですが、

これまで誰も発見したことのない新種の極楽鳥の剥製ということになってます。


造形として自然界に生息しない動物のようなものをこしらえるのは簡単なことで

それだけなら「だからどうなの?」で終わるところですが、

「物語性への欲求」が旺盛らしい作者ライアン・ガンダーの手に掛かりますと、

剥製単体の作品では終わらないのですね。


まずは剥製を見せて「こんな変わったものが発見されたらしいですよ」と関心を読んでおいて、

発見者の邸宅に置かれていたという写真も合わせて展示して「もっともらしさ」を加え、

果ては真贋論争を報ずる新聞記事(当然にこれも作品の一部ですね)までも制作してしまう。


なんだか、エドガー・アラン・ポーあたりの手で小説に仕上げてもらいたいような物語を

見る者に提示してみせるわけです。


先に「アートって何よ?」とまで言っておきながらですが、いやあ「アートは懐深いねえ」とも。

なんだかんだ言いつつも、そしてわけのわからないものに出くわすとしても

泰西名画を愛でるのとは別に現代アートにも触れずにはおられんのは

この辺にあるのやもしれませんですね。