「新耽奇会」展 で珍奇なるものを見てきたからというわけではないのですが(否、完全にそうでしょう)、
珍品映画を二本ほど見てみたというお話であります。


いずれも円谷英二が特殊撮影に携わった
「透明人間」(1956年作品?)と「電送人間」(1960年作品?)という二本でして、
当時としての特撮の粋(ある意味、工夫の数々というべきでしょうか)を凝らして作られたようです。



透明人間 [DVD]/河津清三郎,三條美紀,近藤圭子 電送人間 [DVD]/鶴田浩二,白川由美,平田昭彦


まずは「透明人間」ですけれど、
主人公が服を脱いでいくと衣服の下に当然人体は無いものの、
さもそこに見えない人が脱いだかのようにふわふわぽとりと服が落下する…てなあたりが特撮。


このように透明なわけですから、透明人間自らが相手に視覚的に捉えてもらう必要のあるときは、
包帯をぐるぐると巻いていて…というのはよくあるタイプ(?)の透明人間でして、
ここでの主人公は常にピエロの衣装と化粧で体の存在を示しているという。


戦時下の兵器研究で偶然に生み出されたという、人体を不可視化する放射線。
これを浴びせられた兵士たちで「見えない特殊部隊」が編成されるも、
この機密を知っている上層部としては全員戦死したものと考えていたわけですね。


ところが生き残って日本に帰ってきた兵士のひとりは、誰からも見えない姿であることを隠し、
辛うじて裏路地のアパートに住み、目の見えない少女(!)を唯一の友達に、
キャバレーの看板を持って街中を流す仕事(だもんで、目立つようにいつもピエロの扮装です)をしながら

細々と暮らしていたという。


ところがある時にもう一人の生き残りだったものが、ついに世を儚んで車への飛び込み自殺。
どうやら死んでしまうと見えなかった体は可視化するようで、
何もないと見えたところから死体がふわ~っと見えてくる。


おお、これは透明人間ではないくゎあ!と
大東京は銀座の街角は蜂の巣をひっくり返したようなお~お騒ぎ!
(この辺り、無声映画の弁士になったつもりでお読みくださいね)


これに乗じて、

透明でも何でもない普通の人間が顔や手を全部隠して「透明人間だぁ!」と脅して、
強盗を図る事件が次々に起きてしまう。


そして、あろうことか、かの盲目の少女にはたったひとりの肉親であるおじいさんが
強盗団に唆されて(目の手術をする金がはいるぞ!とは、人情話的な様相です)、
悪事の手引きをしたものの、案の定、用済みとなると殺されてしまう。


こうしたことを知った本物の透明人間、もはや黙ってはおられません。
他人から見えないとの悲しい性も、ここではそれを特殊性を活かして敵陣深く潜入する透明人間。
掛かってくる敵をひらりひらりとかわしては、繰り出すパンチのもの凄さ!(ここらも弁士口調で)


という格闘シーンなんですが、冷静に考えてみれば要するに一人芝居なんですよね。
誰もいないところに「覚悟しろ」かなんか言って殴りかかっていき、
バシッという効果音に合わせて、ひとりひっくり返るという。


でも、それがヘンテコに見えないのは、
昔の役者さんが時代劇の立ち回りかなんかのシーンで

「やられたふり」「切られたふり」をするのが上手だったからでしょうか。

(見る側として実は映画に入り込んでたからかもですが)


さて、強盗団はどうなる?透明人間の運命やいかに?
(こうなってくるとほとんど街頭の紙芝居屋状態でありますが…)
結局のところ強盗団は壊滅の憂き目を見る一方で、

最後の最後には悲しい結末を迎えてしまうのですね。


この映画が作られた1956年は、敗戦後11年。
もそっと後の年代でも、街中では傷痍軍人と呼ばれた方々を見かけることがありましたけれど、
1956年当時においてをやでありましょう。


戦争で心に、体に傷を負った方々が多く見受けられた時代で、
そうした人たちが戦後の社会に溶け込んでいくのは必ずしも容易ではなかったろうと想像します。


そう考えると、この映画で描かれたのは、
戦争によって「見えない」という身体的な損傷を受けた人の、
実は世間の風は冷たいという戦後ありのままの姿なのかもしれんなぁと。


…と「透明人間」のことだけで長くなってしまいましたが、
その4年後に作られた「電送人間」はもそっとSFに傾いた作品でありました。
(ストーリー的にはやはり戦争の影を引きずっていますけれど、ずいぶんと印象は異なります)


昔のブラウン管テレビを室内アンテナで見ていると、

時折電波の乱れが画面の乱れとなって、青白っぽい線が横に走ったりしましたけれど、

電送された人間にもやはりそうした横線が入るのですね。


特殊効果であると同時に、

当時の感覚では「電波で送られてきているのだな」感を出そうという

ひとつの工夫ということになりましょう。


白黒画面の「透明人間」に対して、総天然色(!)の「電送人間」は、
その後の映画やTVでの空想科学モノへの繋がりを

たやすく想起できるものになっていると言えそうです。


しかし、子どもの頃に空想科学モノに相当入れ込んだくちながら、
それでもどちらかと言われれば「電送人間」よりも「透明人間」をとりますかね。


てっきり珍品映画だと思って見たにも関わらず、
実際には一時代の世相を反映しているようにも思われる映画だったという点で。