一夜明けると清里高原 の景色はこんな具合。
見事に天気が宜しくないものですから(清里まで来ていながら何ですが)、
さっさと移動に掛かります。
ですが、途中で雨脚がほぼ途絶えたこともあって、
ちょいと立ち寄りしてみたのが「三代校舎ふれあいの里」というところでありました。
明治になって学校制度もきちんとせにゃあ欧米にさらに遅れをとると
1872年(明治5年)に学制が公布されますと、全国各地と同様に
山梨県北巨摩郡津金村(現・山梨県北杜市須玉町上津金及び下津金)にも
学校が作られることなりまして、1875年(明治8年)に完成します。
これを明治校舎と称し、その後大正時代に建てられた校舎、
さらに昭和になって建てられた校舎、これがひとつところに併存している、
つまりは三代校舎というわけなのですね。
明治校舎は「旧津金学校校舎」として山梨県指定文化財となっているせいか、
保存されて須玉町の歴史資料館になってますが、展示物はかなり雑多な感じ。
昔の学校教材の類い、
たとえば掛け軸式の世界地図(昭和17年のもので満州国の記載あり)とか、
おなかの部分がそっくり口をあけて内臓が見える「人体標本」とか、
あるいは山梨出身で鉄道王となった根津嘉一郎(昔の東武鉄道社長)が
県内の小学校に一台ずつ贈った「根津ピアノ」なんかも展示されてました。
ですが、板張りの床に木の机、椅子で小さい子向けに
習字教室が行われている様子こそがレトロというか、懐かしいというか…でありましたよ。
外から見たときのとんがり帽子風の鐘楼のようなところには鐘ではなくって
太鼓が吊り下げられてました。これで、ドンドンっと始業、終業を告げていたのですかね。
ところで、明治校舎に連なる大正校舎、昭和校舎は
「当時の外観を継承」して再生された建物とのこと。
大正校舎ではやはり板張りの長い長い廊下を見るにつけ、雑巾がけが大変だったろうなあと。
この校舎は今では、地元の公民館として、また観光客向けにはさまざまな体験教室が行われる施設として使われているようです。
さらにお隣が昭和校舎。
後に一般的な学校の建物となる鉄筋コンクリートの2・3階建て校舎の
のっぺらな感じに比べると、妙にモダンな感じがするんですが、
こちらの現在は「おいしい学校」という看板がかけられとります。
中にはレストランや売店が入っており、
奥には別棟で温泉と宿泊施設が併設されているようです。
そしてレストランでは昔の学校給食を模した食事が取れるようになってまして、
このあたりも「おいしい学校」という看板の謂われでありましょうか。
瓶の牛乳、コッペパン、そしてカチャカチャ言う食器類と、興味はありましたけれど、
あの!給食が1,050円かぁ…と(昼飯には早い時間だったこともあって)スルーしてしまいました。
しかしまあ、大正・昭和の校舎は代替わりしているとはいえ、
明治校舎ともども元々の場所に建てられているとなると、それだけ歴史を刻んでいるわけでして、
校舎以外にもふと目にとまったものに歴史を感じたりもするのですね。
例えば明治校舎の前に大きく枝を張った松の木ですが、ストローブ松という外来種らしい。
何でも日露戦争(1904-5年)が終わって国交回復した際に
記念としてロシアから贈られた松なのだとか。
失礼ながら山梨県の山里の学校にも植えられているということは、
相当数贈られたものと想像しますが、他では聞いたことがないなぁと。
ついでにもう一つ目にとまったのが大正校舎の入り口前にあった石碑の裏側です。
元々何の石碑だか見てこなかったんですけれど、
裏側にある「紀元二千六百年 秋建」の文字には
どうしたって時代を感ぜざるを得ないわけでして。
とまあ、ちょいと寄り道的に立ち寄っただけですけれど、
そうした感覚でもないと訪ねることもなさそうな場所ながら、
よくよく見ればそれなりの面白さを感じられるところって、
あちこちにたくさんあるんだなぁと思ったですよ。