だれしも、
生きているのが嫌になるときもあるかも知れん。
そういった状態,状況が断続的に続くと、
その思いを実現する空想に耽ることもあるかも知れん。
やけど、その空想を実行してはならん。
生と死をつなぐ緒が切れると、肉体的には“死”を迎える。
やけど、精神はどないやろ?
想いもそこで死ぬんやろうか?
キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教…
いろいろな宗教があるけど、共通するんは“死後”があるいうこと。
つまり、“死”を迎える,選択することは、
終わりではなく始まりであるとも考えられる。
丹波哲郎さん亡き今、死後の世界のことは誰も分からん。
やけど、“自殺”は、“殺人”よりも重い罪と定義する宗教もある。
「地獄の苦しみ」という言葉があるけど、
自殺した者は恐ろしい修行を永久に課せられるいう教えもある。
つまり、自殺という行為は、「苦しみからの解放」やなくて、
「永遠の苦しみの始まり」という考えも成立しかねんのよね。
肉体がない場合、痛覚はないと考えるのが常識やけど、
死後の世界に現世の常識が通用するのやろうか?
人間に限らず、生命は次の生命を育んでいくんが本質。
その本質を無視して、
自らの命を絶つという行為を“罪”と考えるんも一論。
もう一度言うが、
自殺は苦しみからの解放やなくて、新たな苦しみの始まり。
自らの命を奪う勇気は必要ない
相談できる勇気を持とうや
2011年5月15日のエントリーを再掲