先日、主宰するコミュ(仮称)歴史散歩サークルではなく、別の散歩仲間の中で散歩主催をしてまいりました。

場所は横須賀の浦賀。

浦賀周辺の史跡と、それに併せて東京湾要塞跡である「千代ケ崎砲台跡」を見学した後。

燈明堂から浦賀の町歩きをしました。

今日は、東西の叶神社渡船について話します。

 

浦賀には「叶神社」が東西の浦賀にあります。

 

  叶神社について

もともと叶神社は、養和元年(1181)に文覚が石清水八幡宮を勧請し、文治2年(1186)に源頼朝が源氏再興の願いが叶えられたので、叶明神と改められたとされています。

平家物語にも登場する文覚は、源氏の再興を願って房総半島の鹿野山(かのうざん)で修業し、「もし自分の大きな願いが叶えられるなら、良い土地を選んで神社を建てる」という誓いを立てたとされます。

それが叶ったため、この地に石清水八幡宮を勧請したといいます。

(西叶神社です)

文覚上人は、元鳥羽天皇の皇女に仕える「北面の武士」でしたが、出家して諸国の霊山で修業し、その効験をもって知られていました。しかし、後白河法皇に対する荘園寄進の強要により伊豆に流されてしまいます。そこで源頼朝と運命的な出会いがあり、源氏の挙兵を勧めたといわれます。

で、これがなぜ東西に分かれたかというと…。

もともと西叶神社の場所の身にあった叶神社ですが、言い伝えによると、元禄5年(1692)に浦賀村が東西に分かれた時、西浦賀村の叶神を遷して祀り、西の叶神社を本宮、東の叶神社を若宮と呼んだともいわれています。

浦賀の海を挟んで東西の浦賀は、それぞれに違う雰囲気の町です。

最初に見たのは西浦賀の西叶神社でした。

 

そこから、下の⤵渡船を使って東叶神社のある東浦賀へ行きます。

  渡船について

東西浦賀を結ぶ渡船は、浦賀のシンボルの一つです。

この渡船がいつ開業したかは特定できませんが、享保5年(1720)に浦賀奉行所が設置されて間もない享保7年の記録には「当村には、渡船はありません」とあります。11年後の享保18年(1733)に書かれた「東浦賀村明細帳」には、「渡船の修復の折には、鴨井村、走水村、内川新田、八幡村、久里浜村も東西浦賀村と相応の協力をすること、船賃は村中(東浦賀)のすべての家で一軒当たり米六号ずつ」とあることから、この11年間で、渡船が創業されたのではないかと推察できます。修復の際には、近隣の村々にも応分の負担をかけていることから考えると、地域の人々の日常生活にも、渡船が利用されていたものと考えられています。

また、船賃が1軒当たり米6号ずつとなっています。当時の浦賀の米の量は約6石(約900㎏)となり、2隻の渡船を動かす2人の船頭の生活が支えられるように決めたのだと思われます。

明治元年(1868)の記録では、船賃は1軒当たり一律いくらではなく、家ごとに差があったようです。

現在の船は平成10年(1998)8月8日に就航した強化プラスチック製の御座船です。

約3分の乗船時間です。

 

東浦賀に付き、東叶神社へ。

この東叶神社には、勝海舟が咸臨丸で太平洋横断をしてアメリカへ行く前に、航海の無事を祈って裏手にある井戸で水垢離をし、断食して願を懸けたといわれていますが・・・。

 

果たしてそれは真実なのか…。

そもそも、長い航海を前に、断食などをして体調を悪化させるようなことを、合理主義者の勝がするような気がしません。

そうでなくても勝は、咸臨丸航海中は船酔いで、ほとんど艦底で臥せっていたとか。

まあ、勝って結構ホラ吹きなところがあるのでねえ・・・。(笑)

 

東叶神社では、猫君もお出迎え。

ちなみに、東叶神社の裏手は戦国期には「浦賀城」という、北条氏の支城がありました。

安房の里見軍と激しい攻防が繰り広げられたそうです。

続きます。

(日時指定投稿です)