平野秀行

平野秀行

日々の思いを自由に語ります。

タイトルでは、クロ151登場となっているが、単なる1車種のデビューにとどまらない。

当時、考えつくされた最も豪華な車両クロ151のデビューによって、戦前からの国鉄

シンボル特急「つばめ」「はと」を客車から電車に置き換えて、これからの特急は、

客車を辞めて電車で運行する!という決意を示したものである。世界の潮流に逆らう

事実上の大日本電車帝国の設立宣言であった。

 

 

車両は大きく分けて、4人掛けソファーの区分室とじゅうたんの通路を挟んで両側に

1人掛けのR2形回転式フットレスト付きのリクライニングシートをシートピッチ1,100㎜

で7脚ずつ配置した開放室に分かれていた。

 

 

各座席には、給仕(ボーイ)の呼び出しボタン・シートラジオ及び電話ジャック(給仕が

ポータブル電話器を持参し座席で通話出来る)を備え、おしぼり・紅茶・クッキーがふるま

われた。

 

 

運賃は、3等級制の2等料金(パーラーカー特別料金6,100円)が適用され、客車特急の

展望車1等料金(7,640円)から値下げとなった。

 

 

なお、最終製作車両のクロ151の12号車の区分室の窓は、VIP仕様の3層防弾ガラスと

なっていた。

国鉄末期の昭和55年、上越線の古い電気機関車を置き換えるために、全く新

規で製作される電気機関車は、相当ハイテクな装備を施した物が出来上がるだ

ろうと予想していたが、その予想は当たらなかった。

 

 

特に、サイリスタチョッパ制御式の電力回生ブレーキは、最低限装備していただ

ろうと思ったが、結果は違った。その未搭載の理由は以下の通りだった。

 

 

①製造費が高くなること

②変電所の改良と増強が必要になること

③制御方式が全く異なるため、新旧機が混在すると、運用面に不都合が出ること

④新形式の導入は、労働組合の合意に達するまで時間がかかること

 

 

であった。

 

 

しかし、出来上がった電気機関車の外観はそうそうたるもので、側面の1440㎜×

1190㎜の3枚の鎧戸の迫力は相当なもので、むしろ、電力回生ブレーキより、大

型の主抵抗器を積んだこちらの方が、精悍なイメージがあって良かったというもの

である。

EF57は、EF56の走り装置をベースとして、主電動機をMT17A形(定格出力1350kw)から

MT38形(定格出力1600kw)にパワーアップした機関車である。そのため、主抵抗器を増強し、機械室の温度上昇を防ぐために車体側面のヨロイ戸を増設して、屋根上には大型モニタ屋根を設置して、周辺にガーランドベンチレータを大量に設置した。

 

 

国鉄発足前の昭和24年2月1日から、電化区間が静岡から浜松まで延長された。ところで、静岡市は

東海道本線によって、南北に分断されていたが、静岡駅東側の八幡の踏切は、駅からの引き込み線が干渉していたため開かずの踏切となっており、静岡駅西側には陸軍の指導で電化が考慮されていない低い跨線橋が架かっていた。しかし、この跨線橋は静岡市を南北に連絡する唯一の連絡橋であったため、架け替え工事が出来なかった。そのため、この連絡橋を潜るEF57は、パンタグラフの取り付け位置を下げる必要性が生じてしまった。

 

 

パンタグラフの取り付け台をそのまま単純に低くしてパンタグラフを折りたたむと、2エンド側が暖房缶の煙突、1エンド側が水槽のふたと接触してしまうため、取り付け台を車体から両エンド450㎜ずつはみ出して、100㎜低く設置することになった。

 

 

こうして、EF57のトレードマークである張り出しパンタが出来上がった。

 

 

連絡橋架け替え工事のゴーサインが出なかったのは、当時の静岡市長が極度の石頭だったのか、静岡鉄道管理局長がよほどのお人好しだったのか、それは定かではない。