インドネシア独立に命を捧げた日本人。
$かつて日本は美しかった


 大東亜戦争中、インドネシアでは日本軍がオランダ軍ら連合軍を破り、軍政を敷いていました。昭和19年(1944年)9月、小磯内閣は「将来、独立を許容する用意がある」と声明を発表。昭和20年3月には独立準備調査会を設置。共和制の採択、憲法の草案が話し合われました。8月には独立準備委員会を設置します。
 
 インドネシアのスカルノ、ハッタら指導者は8月11日に南方軍司令官の寺内元帥に会います。そこで寺内元帥は「日本軍はインドネシア独立のためにもう何も出来なくなった」と詫びたのでした。8月15日、日本はポツダム宣言を受諾します。
 
 8月17日、インドネシア独立宣言。ここからインドネシアの厳しい戦いが始まりました。
 
 インドネシア人にはPETAと呼ばれる義勇軍があり、日本式の軍事調練を受けていました。彼らは日本軍の武器を手に入れ人民治安軍を結成します。そこに旧日本兵が加わりはじめました。
 市来龍夫と住吉留五郎もそんな元日本兵でした。二人は日本人を捨てる覚悟で独立戦に参加し、東部日本人部隊の指揮官として敵地工作を担当しました。住吉は結核に冒された身体をおして山中を転戦し、昭和23年8月10日、ゲデリ州のセゴンで38歳で病死、市来も昭和24年1月9日、ジャワ東部でオランダ軍の銃弾に頭部を撃ち抜かれて壮絶な戦死を遂げました。※1
 
 勝山秀雄は「私は福岡出身だが、九州が全滅し、日本兵は全員、アメリカ軍の奴隷となったといううわさが流れた。体を壊していた私は、どうせ死ぬならインドネシアの独立のために戦って死のうと思い、部隊を離れてインドネシア軍に入りました」
 
 岸布留男はナルトンの病院で敗戦を知りました。「夜になると以前から知り合いだったペタの兵士がやってきて、日本はもう戦争に負けて国がない。だからインドネシアの独立に手を貸してくれないかと・・・」。岸が躊躇しているとその兵士はたびたびやってきて「岸さんはインドネシアの独立を約束すると言ったじゃないか」と繰り返し、その情熱に打たれた岸は、戦友4人と独立軍に参加しました。
 
 インドネシア軍に参加した日本兵の数は正確にはわかっておらず、スマトラ約500人、ジャワが300人、それに軍属、民間の有志を加えると千ないし二千人と言われています。そして経験の浅いインドネシア軍を指揮するため最前線で活躍し、約半数が戦死したといいます。
 
 インドネシア独立の戦いは壮絶なものとなり「死か独立か」が合言葉になり、武器が足らずに竹槍で戦った兵士もいました。イギリス軍との戦闘でインドネシア側は市民を含んで1万6千人が犠牲となり、15万のオランダ軍と戦った結果、80万人もの犠牲者を出したといいます。ものすごい数です。
 
 インドネシア国会議員、最高諮問会議議員を歴任したハッサン・ラハヤ氏
「自分たちで勝ち取った独立と与えられた独立では、自分の国に対する思いというのは全く違います。
 私たちには、インドネシア人たるものはいつでも国のために命を捧げるという悲壮な思いがあるのです。それは今でも同じですよ。私たちにはその思いが如何に重要であるかが身にしみて分かっているのです。
 そのような思いというのは日本から受けた教えでもあったのです。日本の精神とか武士道、サムライという言葉は戦争中のインドネシアでは誰もが口にしていたのでした」

  
 80万もの犠牲を出しても戦った意義があるというのです。現在の日本ではこういう歴史的視点はタブー視されていますね。戦争はもちろん誰でもやりたくないものですが、あの時代では戦争を善悪二元論で語ることはできないでしょう。日本の戦争だってもちろんそうです。日本人はあの大東亜戦争の意義、先人が命をかけて戦った思いを直視すべきでありましょう。
 


※1 東京港区の青松寺にはスカルノが二人にささげた石碑が建てられている。


参考文献
 桜の花出版編集部「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実」
 「世界が愛した日本」四條たか子著
 「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター編
 
添付画像
 ムルデカより

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(MAD)ムルデカ ~島崎中尉よ起ち上がれ!~
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