矢口高雄さんの歩み~水木プロでの出会い。 | じろう丸の徒然日記

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私こと、じろう丸が、日常の出来事、思うことなどを、気まぐれに書き綴ります。

(前回の記事からの続きです。)


 
水木プロを訪れた矢口高雄さんを、水木しげるさんは自ら面接して、(これは良い人が来てくれた!)と、内心喜んだ。
何せ、持参してきたとても上手に描かれているし、人柄礼儀正しくて申し分ないし、水木さんはその場で矢口さんアシスタントに採用しようとした。
だが、ふと思いついて、「いま、歳はおいくつですか?」と訊いてみた。
矢口さん「30歳です。」と答えると、水木さんは驚いてしまった。ふつう、漫画家のアシスタントを志望する人は、20歳前後の人がほとんどだからだ。
 
失礼ですが、そのお歳になるまでお仕事は何をなさっていたのですか、水木さんが尋ねると、矢口さんは当然ながら「銀行員をしてました。」と答える。
ええっ! と、水木さんはますます驚いてしまった。そんな良い職業に就いているのに、それを辞めて漫画家になるおつもりなのですか?
そこで矢口さんは、職場の上司との大ゲンカのいきさつと、辞表を提出したことを正直に話した。だがこの時点では、提出した辞表まだ受理されておらず正式な退職日も決まっていなかった。
つまり、まだ羽後銀行が残っていた。
 
水木さんは、矢口さんに、銀行に残るように説得をはじめた。漫画家は不安定な職業です。銀行員の方がずっといい。少しぐらい嫌なことがあっても我慢して、そこにいなさい‥‥。
この時点では、「月刊漫画ガロ」編集長長井勝一さんも、同意見だった。
それで、矢口さんも、その日は諦めて秋田に帰っていった。
しかし、数日後、再び長井さんに付き添われて水木プロにやって来た。
 
銀行はどうしたんですか? と尋ねる水木さんに、矢口さん「辞めてきました。」と答えた。辞表受理され、正式に退職してしまったのである。もう後へは引けない‥‥。
さらに矢口さんは、自分はもう結婚もしていて、子供も二人いることも話した。
事情を理解した水木さんは、あらためてその場で今度こそ矢口さん水木プロに迎え入れることにした。が、一緒に付き添ってきた長井さん「待った」をかけた。
高橋さん矢口さんの本名)、あんた、奥さんや子供さんがいるんだろう? 水木プロの給料じゃとても家族を養えない。私に考えがあるから、一緒に来なさい‥‥。
長井さん矢口さんを連れて、当時神田神保町すずらん通りにあった「月刊漫画ガロ」の出版社、青林堂へ急ぎ戻った。
 
長井さんは、数枚の名刺と、「ガロ」次の号に載せる予定だった矢口さんの作品の原稿を、矢口さんに渡して言った。
(以下、「月刊漫画ガロ」1996年3月号矢口さんの手記より引用)
「女房も子供もいる身で、これから一念発起してマンガ家になろうとするのは容易なことではない。できることならわが社でめんどう見てやりたいところだが、ご覧の通りの返本の山で、原稿料も満足に支払えないありさまだから」
「これは最近会った大手出版社の編集長クラスの名刺です。この作品を持って名刺の相手を片っ端からたずねてごらん。ひょっとしたら仕事がもらえるかもしれない。そうだ、私の名刺も持っていくがいい。裏に紹介状を書いておこう。すまないねェ、いまの私にはこのぐらいのことしかできなくて‥‥」
(引用、終わり)
 
矢口さんは言われた通り、まずは青林堂から歩いて3分ほどのところにある小学館「少年サンデー」編集部を訪ねた。
小学館の受付で長井さん紹介状を見せると、受付嬢はすぐに「サンデー」編集部に連絡をしてくれた。
矢口さん編集部の入り口に来ると、奥から編集長が出てきて矢口さんを応接室に案内し、何と編集長自ら、作品を見てくれた。
 
矢口さんがこのとき持参した作品は、『みなぐろ』というタイトルで、熊撃ち猟師(マタギをテーマにしたものだった。まさに矢口さんでなければ描けない作品だったと言える。
原稿を何度も何度も読み返していた編集長は、やがて顔を上げると、この原稿を預からせてほしいと言ってきた。この人を他のライバル誌にとられたら大変だ。この人はぜひとも我が「少年サンデー」が欲しい!
矢口さんが手ぶらで青林堂に戻ってきたのを見た長井さんは、最初驚いていたが、「少年サンデー」が原稿を預かっている旨を聞くと、そうだろう、そうだろう、と喜んでくれた。
事実上、矢口さん「少年サンデー」でのメジャーデビューが決まったのだった。
 

漫画文庫『野生伝説 羆風/飴色角と三本指』(原作:戸川幸夫 2018年、山と渓谷社)
残念ながら『みなぐろ』は収録されていません。
 
ちなみに、水木プロを訪れた際に、矢口さんは、そこでアシスタントとして働いていたつげ義春さん池上遼一さんと出会っている。
つげさんたちは、実に丁寧にペンを動かして描き込んでいた。矢口さんはその丁寧な仕事ぶりを見て、「ああ、漫画ってのはじっくり描くもんなんだな、俺が今まで描いていたのは略画だったんだな」と思ったという。
特に矢口さんを驚かせたのは、水木プロ売りの一つである点描だった。てっきり数本のペンを束ねて点々を打っているのかと思っていたら、1本のペンじっくり丁寧に描いていたのだった。
矢口さんは翌日、秋田の家に帰ると、ドジョウを1匹捕まえてきて、それを洗面器に入れて写生し、ドジョウ体の模様点描で描いてみた。
すると、ちゃんと水木プロ風の絵に仕上がったので、矢口さんは大いに絵の表現に自信を持った。
 
また、つげ義春さんは、矢口さんに、スクリーントーン貼り方を教えてくれた。
「月刊漫画ガロ」1992年8月号に掲載された矢口さんの回想によれば、それは水木プロに遊びに行ったときのことだそうなので、おそらくプロデビュー後のことだろうと思われる。
何でも、ヤクルトの小瓶でこすると良いのだそうな。
ヤクルトの小瓶は今はすべてプラスチックだが、当時はガラス製だった。
つげさんは、「こうやってやるんだ」と言って、矢口さん原稿トーン貼りを、その場で全部やってくれたのだとか。
 
こんなふうに、矢口さん水木プロで、今まで知らなかった技術を学ぶことができ、その後の仕事に活かすことができた。
(続きます。)