前にも書いたが、父は私が11歳の時に肺がんで逝った。46歳だった。
父は子供の誕生によって、あたかも新しいページを人生で開いたかのようだったのではと思う。
私が生まれてから 7か月ほど付けてくれた 育児日記/成長記録がある。
時に絵や図を交えながらの記述から父の愛情が伝わってくるのだが、大人になって読み返すたびに、そのとき自分が幸せでなかったり生活がうまくいっていなかったりする時は罪悪感を感じさせるものでもある。
こういうものを読んで、絶対幸せになるからね、パパ、と誓わない娘はいないだろう。
数ページ、紹介させてくださいね。
日記は生まれる前日に始まっている。
1953年(昭和28年)2月24日(火)曇
母、昼過ぎより腹痛あり。夕方5時頃より本格的な陣痛を訴う。
どんどん激しくなり、7時 入院の準備。
8時タクシーで名古屋市民病院へ。
病院では廊下を歩くのも困難。
病室は2階北館5号室、南の窓に向かうベッド。
10時、ママ1人おいて帰る。
2月25日(水) 雨
朝、病院へ急ぐ。生まれていた、女の子が。
ママも子供も丈夫だ。生まれたのは午前0時54分
身長は50cm、体重は2,600gr.
子供は顔が赤くクシャクシャだ。口が大きい。
右の眼が悪く 眼ヤ二が出ている。鼻は高い。
耳が大きく 顔の形が不格好だ。
手と足は見られたものではない。
2月26日(木) 晴
昨夜、病院からの帰途、ベビーの名前を考えた。
「青い鳥」のミチルがよいと思って 決めてしまった。
幸福は何処にでもあるが 我々はいたずらに追い求めているのだ。
ミチルはすぐそばにいる。
朝11時 病院へ。ミチルと名前を付けたよ、とママに言ったら
ママは喜んでいた。
。。。この日記の話題、一回だけのつもりでしたが、もう二回くらいに分けて紹介させてください。
この小さな日記帳、以前も何度も読んだし、父の形見としてどこへ移住するにも持って来たけれど、今回のように、タイプしたり書き写したことはない。
ちょっと着手したら、また胸の中のクリアリングが始まってしまった。
少し時間をくださいね。
どうぞよろしく
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