モーションダイ部26時間UST生放送が終了した。興奮さめやらずずっと起きているけれど、中身の濃い、充実した内容だった。
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孫泰蔵さん

 日ごろから、孫泰蔵さんと平野さんの熱いツイートをいつも見ていて、彼らが実際に会って話すことがあればどんなに楽しいだろう、とか、勝手に夢想していたけど、まさか本当にそれが実現するとは思わなかった。孫泰蔵さんは仏のような人で、それでいて語る内容は熱く、きちんと論理的な人だった。泰蔵さんの名著「孫家の遺伝子」を何度も読んだ後に、孫正義の伝記を読んだので、僕は泰蔵さんを通して最初に孫正義を知った。
だから前から孫泰蔵さんにはすごく興味があった。

向谷実さん

当日、直前に放送に飛び入りされ、2日に渡って出演。僕は、向谷さんが所属されているカシオペヤも、向谷さんも全然知らなかったけれど、何歳なのかわからないけど、すごくおもしろく、話し出したら止まらない人だった。著作権に関しても、アーティストの立場で、かつ細かい法律的な議論ができる人を見たのは矢沢永吉とZeebra以来だった。

 向谷さんは鉄道好きなので、一緒に見ていた家族に話すと、「カシオペアって言うくらいだもん。それだけで鉄道好きなのがわかる。」との答えで、カシオペアって電車の名前なのかと初めて知った。そう言えば、Going Steadyの「銀河鉄道の夜」にも、カシオペアって出てきたような気がしたから、何か納得。

ツイートでは結構反発があったみたいだけど、向谷さんが言っていることは全然間違ってなくて、ちゃんと場の空気と礼儀を考えて発言していたのがわかった。



神田さん

たぶん大人の事情で僕はアメリカ市民と連呼していたテンガロンのカウボーイ。この人が面白くて頭がとても良くて、そして子供みたいな純粋さと情熱と元気とパワーが他の人にも伝わって、僕はUSTで一体感を味わうことができた。
 なんといっても、アメリカで発売したipadをいち早く日本に持ち込み、生放送で実演、みんなで奪い合い、向谷さんはピアノを弾き、手にとった人はその瞬間に声をあげ、やがて操作に没頭し無言になる、それをみんなで順番に繰り返す光景が見られた。
 全然知らなかったけど、イラクの事や原発関係でも文章を書いている方のようなので、もっと詳しく知りたいと思った。

林さん

やたらとリツイートされてたのか、前にフォローしてたのかはわからないけど、最初はipohoneで聴いていたので、顔が分からなかった。でも、PCで聴いてて、どこかで見たことのある顔が生放送にいたので驚いた。もちろん実際に会ったことはないけど、発言は何度も見たことのある人だった。2日目も来てほしかったし、博識で面白かった。

一番衝撃を受けたのが林さんのこの記事。

21世紀を感じさせる魔法のLiveScribeペン

学生である自分には絶対欲しい。

ちゃんと個別の商品の事情もまとめられているので頼もしい。
当日のまとめは、林さんのブログ で。

アーカイブは全て残っているが、生で参加した一体感、出演者一語一語の言葉に興奮し、かなり勉強になった。放送終了後に、主催者の平野さんはこう言った。「未来から現実に帰ってきた」と。

そう、僕は未来にいたのだ。それも全然遠くない未来に。

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 多くの人の声に耳を傾け、その全てに応えようとするのが民主主義だろうか。
大臣がつぶやきを世論だと思い、自己の行動に反映させることは民主主義だろうか。
僕はそうは思わない。だが、この仕組みが人々に声をあげさせるツールになることは認めよう。
 今まさに、万人に開かれるかつてないコミュニケーションの可能性があることも認めよう。

 それでもなお、大事なのは技術ではなく、そこで交わされる言葉のやりとりであることは間違いない。毎晩毎夜、アーティストや企業家達に向かって、どこかの誰かから、自分にすればとるに足らない言葉が投げられる。否応なしに付き合わざるを得ない彼らは、果たして人々への義務感や誠実さゆえに、それらに真摯に応えているのだろうか。僕はそれを直視することはできない。

一昨日はホリエモン、そのあとはzeebra,そしてken yokoyamaが、声無き声の取るに足らないやっかみやヤジに対してレスを返し、とめどもなく続くその応答は、聞かなくてもいい事とか、どうでもいいことばかり。当の当人達は、だからどうした?なぜそんなことを聞く?と返すしかない。
ホリエモンは頭がいいのわかってやってるので、暇つぶしだからやりとりを見ていて笑えるけど、

ZeebraやKen yokoyamaもものすごく純粋で誠実さがあって、どんなくだらない質問にも熱くなって答えてるので、これを毎晩やられるときついな、と自分には感じる。

 アーティストに対しては、特にユーザー側から、周囲の軋轢や人間関係を、まるでゴシップ記者のように、割と悪意なく聞いてしまう構造になっている。ちゃんと答える側はよかれと思ってレスしてるけど、くだらない質問に対してのフィルターがアーティスト側にないのも、システムとしてまずいと思う。よく記者会見とかで、サイドにいて耳打ちする弁護士とか、そんな感じの抑えがとりあえずこのメディアにはない。

 そして、そんなフィルターなしのコミュニケーションで、何でも気軽にレスが返ってくるのはきっと今だけだろう。

 いずれユーザーが増加し、有名人との直接のやりとりもできにくくなり、気軽さの扉は閉じられるだろう。それは仕方のないことだ。だって、使う側がどう使ったらいいかよくわかっていなくて、結局その答えはずっと見つからないままになることが目に見えているからだ。
 そう、いつかどこかで見た風景だ。大きな火事は起こらずとも、毎日どこかで小さなボヤぐらいは起こっている。そしてそれを誰も振り向かないし、無数の人間のつぶやきの洪水の中では、膨大すぎて誰にもその全体性をつかむことはできない。
 
 砂粒の個人の悪意無き悪意は、時にユーザーの有名人を混乱と恐怖に陥れる。
それでもなお、そこに何らかの可能性や一筋の光を見出すとすれば、この仕組みは、自覚的な参加者ほど、会話の状況や流れを自分でコントロールできるということだ。
  
 誰かの誘導や扇動は、無数のうごめきの中の嫉妬や羨望によって相対化され、すぐもっとずっと下のレベルまで落とされる。誰かが何かを煽ろうとしても、必ず誰かが茶々を入れ、反対のための反対、言葉だけの勝負になる。だから、そんなくだらない梯子はずしは無視することだ。そして、自分の信念や考えが正しいと思うなら、誰がなんといおうと続けるべきだ。毎日の議論の応酬からは何も生まれないが、何かが生まれるきっかけや、アイデアが連鎖して新しいコミュニケーションの手段をみつける手がかりは、間違いなくここに落ちている。 

聞く人を選び自分が伝える人たちを与選び、ノイズをシャットダウンした状態で、何が一番自分にとって大事なのかを見つけることができるツールは、周りにはいくらでもある。

 それが何なのかは、各自が自分で、そのもの自身に役割を与えるしかないだろう。 そこらへんがWeb的なもののいいかげんさであり、自分がものすごく大事にしたいところだ。 全ての人の声を聞くことが民主主義じゃなくて、自分で選んで、自分に合うものを選ぶことを、ちゃんと余裕として確保できて、そしてその余裕が世の中の仕組みとして保障されているということが民主主義だ。多数決とか選挙で誰かを選ぶとかいう意味じゃない。選択権を自分の中で持つことが、誰にでも保証されるのが民主だ。

そこには当然、選択と排除が起こるが、そこでの自分なりの選択は、自分と同じ意見、同じ考えの人の意見だけを聞くという意味では全然ない。自分が声を集める段階で何らかのセレクションをしておいたその中での意見の集約なら、少なくともフィルターかかってるから、自分にとっては安心だ、というだけの話だ。そういう経緯を頭にいれながら、私達はもう一度民主主義の考え直してみるべきかもしれない。今まで聞けなかった声に触れることは大事だ。思わぬ出会いや発見もあるだろう。でも、参加者全てが善人でもないし、自分にとって価値のあるものでもない。私達が知らずに夢想する機会費用や機会損失は、ほんとは最初から何もないのだ。

 技術は人に夢を見せる。

本来起こり得なかった利益や損失すら、あたかもそれが起こったかもしれないと思わせるような壮大な夢を。

 それがつかめそうでつかめない雲のように、まるですぐそこにあるように感じられてしまう。
この錯覚ゆえに、テクノロジーは無限の発展を続けることができる。

 そして、その無限の可能性は、万人に平等な権利や発言権があるという夢を決して壊さない。田舎の農村の娘であっても、どんな人間でも都会に出てスターになる権利はあるらしい。自分もそれを否定しない。むしろ積極的にそういう機会は開かれるべきだ。 でも、万人に開かれた経路は、同時に、先に進んだ者や上へ上がった者への間違った平等意識の押し付けを生む。

 「どんなに成功した歌手や作家も、このちっぽけな声無き声の無名の自分の言葉に返答すべきだ。いや、そうすることがあなたの義務だ。」

 これがどんな狂っている意見かということは言うまでもない。

 今まで私達が聞けなかった声にも限度があり、全ての人の声を聞けるわけじゃない。また、そのような声に完全に応えるのは、バランスが取れない。 アーティスト一人に対して、その他大勢数万人で、一対一は物理的にアーティストに負担がかかりすぎだ。深夜のラジオで読まれる葉書、テレビ番組内での意見は、とてもじゃないが全部放送時間内に読まれることはない。

そして、別に自分の意見が読まれなくても、多くの人は気にもしないだろう。(よく見る風景で、応援FAXをボードにたくさん貼っているのは、、あなたの声も聞いてるよというポーズなのだろう。)

 でも、実際はn対nの不特定メディア(@宮台真司)の究極系では、自分の意見が反映されなかった事に対する怒りが、社会的正義や平等な権利を装ってアーティスト本人にぶつけられる可能性が高い。思えば、これはメールが一般的に広がったときによく見られた光景だ。

「返事がないのは私を嫌っているからですか」
「なぜ私の意見に答えてくれないのですか。」
「なぜ無視するのですか」

うるさいよ、こっちだって忙しいし、たまたま返事が遅れただけかもしれないじゃないか。それに、寄せられるメールに全て答える義務は、実は受け手には全然存在しない。実は、それはメールを受けた人の勝手だ。
 
メールでは、相手が見えないからこそ、無視されたと思った側の妄想や想像は増大する。それは、返事は必ず返すべきだ、いや自分には返事を返してもらう義務がある、という、上のような妄想のような前提があってはじめて成立する二重の妄想だ。

 世の中には、返事を返さないことが答えであるノーアンサーというアンサーもある。そのようなアンサーすら想像しえないことこそ、僕は人に対する配慮や優しさの欠如だと思う。 返事がくるかこないかを不透明性や不安といっても、そんな不透明性や不安があることははっきりしている。つまり、不透明であることは透明だ。

 その透明性の仕組みが見えないからこそ、人間は本来起こり得なかった利益や損失を過大に見積もってしまう。返ってくるはずのない返事に苛立ち不安になる。 そして、決してこのつぶやきのツールは、そんな苛立ちや不安を消し去るものではない。むしろ場合によっては、人の不安感を何倍にも増幅してしまうこともある。

 もし、そんなものを自由や民主主義と呼ぶ人がいたとしたら、なんという恥ずかしさを感じない人たちだろうか。

 新しいコミュニケーションのチャンスは、無数のつぶやきの仕組みや流れを利用して、自分で見つけて、自分で創っていくものだ。

  私達に降りてきた新しい技術の光は、決して政治的な文脈のみでは理解することができない。そういう風に理解する人はそうとればいい。でも自分は別のところに目を向ける。
ただそれだけだ。

 可能性の意味を履き違えて、くれぐれも誰かと自分が対等だなんて思ってはいけないのだ。

なぜなら、人間には上も下もなく、ただ違いだけがあるからだ。
 
 そんなことを、昔どこかの誰かが言っていたことに付け加えて、ふと考えてみたりした。
 Twitterで、誰が、どこで、どのように、何の意図を持って、何を、誰に向かって伝えようとしているのか。そう考えながら、各分野ごとに情報を整理分類して、インデックスをつければ、基本的に紙の新聞はいらなくなる。

 それでも、自分の身近な生活エリアの防災情報ぐらいは地元のニュースの紙媒体で確認したいところ、と思っていたら、それもすでにTwitterで配信されている。さらにその配信も、紙媒体の記者さんたちあるいは通信社の配信などの情報収集活動を前提とした既存メディアの発信だ。だから厳密には、Twitter配信や参照情報は一次情報じゃない。今の段階は、自分の生活圏の新聞社は、ほぼ無償でTwitter配信を行っている。

 紙の新聞はいらないけど、そのいらない新聞の収益を支えているのは、ユーザーにとって本当はすごくコストのかかる宅配システムだ。宅配システムからWeb配信に移行することは技術的には難しい。技術ってプログラムだけのテクノロジーに限らないからだ。

 ユーザーを紙媒体からWebに誘導して、何らかの形でインフラ代金を払ってもらわないといけない。紙の新聞は、基本的には過去を振り返ることはできない。過去の記事のまとめを出してない新聞社だってあるし、学校関係者でないかぎり、データベースの利用料は大抵高い。つまり誰にでもオープンではない。

 じゃあオープンにしてどうなるの?今まで発行された、すごい量の世界中の新聞や雑誌のバックナンバーを瞬時にSDカードに入れて、いつでも情報を取り出せるようにして、まるで神になった万能感を感じる以外に何のメリットがあるの?
   
 上に挙げた、紙の新聞不要論も、情報の源流を遡って、せいぜい通信社レベルの情報を私達が受け取っても、ちゃんとそれを分類して、自分自身の見地を高めることができるかどうかはわからない。

 過大な情報を、自分の基準にそってせっせと分けることは、とりあえずはできる。さて、じゃあ、その情報を、どうやって、何のために、どんな工夫をして、どうやって役立てたらいいのか。実はみんなわかってない。

 わかってないけど、恐ろしいことに、わからないなりに、そんな分野が産業として成立している。

 そして、膨大な情報をより分けた自分の判断基準が既に偏っているかもしれない。何かを基準にして偏りを判定するのだから、どこかに基準はあるはずだ。その基準は絶対の真理じゃない。ただ、基準は常に間違っていると疑ってかかって、時々自分の判断に修正をかけていくことさえしてれば、目も当てられないほどひどい結果になることは少なくなる。

 多くの声を聞くことが大事なのではなく、多くの声の中にあるもっともらしいこととか、楽しいこととか、自分を高めることに新しいツールを使うことが大事だ。そして、そういった新しいツールを、自分のために有益な仕組みにするには、ある程度のまとまった数がいる。

 この歳になって、いまさらどこかの誰かに、何か聞いた風なありがたい格言を毎日聞かされることはごめんだ。
大抵の場合、それはその人の言葉じゃない。
どこかのえらい人の、ある一時期の過去の、それも、前後の文脈を切り離した、何のインパクトもない単なる文字だ。

くだらない言葉の洪水をどんどんフィルターかけて、ちゃんと真摯に仕事に向き合っている凄い人たちとコミュニケーションをしたい。

橘玲みたいだけど、人々の無数のつぶやきのなかに、きっと黄金の羽根は落ちている。

日本のネット草創期に、平野友康という人が、ニッポン放送で、オールナイトニッポンを担当していた。

 堀江や藤田もこの前後に会社を興して事業展開していた時期だと思うけど、僕が堀江や藤田を知るのはもっとずっと先、それもテレビや本の中でだ。僕はライブドアやサイバーエージェントを全く知らなかった。

 平野友康のお台場ラジオ会館を、毎週欠かさずに、ラジオにかじりついて聞いていた。彼の話すひとことひとことすべてが、僕にとってのネットの未来だった。

 それは今のwebのありようとはぜんぜん違っていて、ネットは本来こうあるべきなんじゃないか、と今でも追求する価値のある、自由を存分に享受できるものだった。

 windows98が発売された直後の話だ。
 今ではもう消えてしまったが、当時のサードステージ・デジタル事業部のホームページに掲載されていた、平野友康が大学を追い出されるまでの胸が高鳴るような興奮の記録が、今の自分のwebに対する考え方の基本になっている。
 ICQもほとんど消えてしまったけど、当時はネットバーガーという素晴らしいソフトがあって、開発者の平野友康本人とやりとリができたことにむちゃくちゃ喜んだ覚えがある。

 平野は最終回でボロボロ泣いていた。

で、ネットバーガーの開発は終わるけど、このソフトがいつかICQを追い越す日が来る、とメールしたら本当に番組で読まれてとても感慨深かったのを覚えている。

 いわゆるITバブルの時期に、デジタルステージが、あの馬鹿騒ぎに入らなかったのと、どこか変なとこに買収されなくてよかったと思う。

 番組が終わっても、週刊アスキーか月刊アスキーの平野の連載を追っていたのを覚えているけど、やっぱり紙媒体ではうまく伝わらなくてとても残念だった。

開発は終わるけど、ちゃんとネットバーガーの技術は次の製品に活かされますっていうアナウンスを開発者チームがしていたのも覚えている。なんに活かされたのかは知らない。でもきっと何かに活かされたのだろう。

 そして十年、今の自分は、仕事で、フォトシネマという素晴らしいソフトを、頻繁に使うようになった。

 そして恐るべき事に、使っている自分の周囲は、誰もデジタルステージの事も、平野友康のことも知らなかった...。

その時、とても懐かしい感じがした。

初めて使うソフトなのに、開発者に信頼感があるので、すんなり使うことができた。

 フォトシネマは、たくさんの画像を、音楽を入れて、映画のように仕上げることができる。しかも簡単に。

 そして、趣向を凝らそうと思えば、徹底的に手を入れて完成度の高いものを作ることができる。

 今では自分の周囲のイベントにはかかせないフォトシネマ。

僕は、こういうソフトでこういうことができるってことが本当のIT化なんだと思う。
先日、itunesから、iphoneの3.0へのバージョンアップを行ったが、何度行ってもエラーの表示。

1604と1202のエラーが出て、iphoneも、itunesとUSBのエラーが出たまま、どこを押しても動かなくなった。

ITとかWebとか、何か変り始めた-iphoneエラー

こんな表示が出て、どこを押しても動かなくなったら要注意。
今の所、ショップに持っていっても対応できず、そのまま交換することが多い。

しかし....


しかたなくsoftbankのショップに行って新しい機種に交換してもらい、再度バージョンアップをすると、また同じ症状が...。

そこで、QuickPwn22というソフトを使って、手順どおりボタンを押すと、復旧した!!


iphoneコールセンターの話
・1604と1202は、間違いなく、iphoneではなくアクティベーションサーバーのエラー。
・原因はサーバーの混雑
・現在、iphoneコールセンターに多くの同様の問い合わせをいただいている。
・おそらくショップにはこの情報はまだ届いていないのでは。
・何度もあきらめずにバージョンアップを試みると、更新できます。

とのことだった。(コールセンターのスガハラさんより)
時間がないし、面倒なので、バージョンアップなどするわけがない。

が、おそらく情報の伝達不足及び開示不足で、多くの正常なiphoneが、故障扱いで返品・交換されているのだろうと思うと、何だか異常な感じがする。


この10年。ライブドアはわけがわからなくなり、あっと言う間に消え去った。Yahoo!japanはYahoo.comと同じようなデザインになった。
しかも収拾がつかないくらい巨大化して、かつ広範囲に分野を広げてどんどん細分化していっている。
 楽天は....98年ぐらいのデザインのままだ...。ホームページビルダーで一生懸命作った感がある。きっとweb2.0とか無縁なんだろうな。
サイバーエージェントはよくわからないので、過去のホームページデータを見たりする。
yahoo以外はいずれもwww.webarchive.orgで設立初期からのホームページを見ることができる。

それでだ。
これらの過去のホームページを参考にしつつ、その数年後に出た当事者や業界全体を書いた本を見ると面白い。
複数を同時並行的に見ると、立体的に状況を把握できる。


ビットバレーの鼓動
堀江貴文の儲かる会社の作り方
渋谷で働く社長の告白
ヒルズな人たち―IT業界ビックリ紳士録

 この3冊を読むと、藤田も堀江も初期はメチャクチャだ。

できもしないことを「できます」と大風呂敷上げて、会社に帰って必死で考えて、人を集めてギリギリで実行する。それの繰り返し。
 そこからちゃんと普通の会社らしきものを作って育てていく過程に、とても参考になるところがある。
 自分達の力で雑居ビルから大きくなっていく物語に、パワーやスピリッツを感じることができる。

「ビットバレー~」は孫弟や堀江、藤田、その他いろんな面々が出ている。みんな今とぜんぜん顔が違う。
 藤田は五分分けで、ネクタイしてメガネかけて、銀行員みたいだ。この写真を藤田の自著で使えばもっと深みが出たのに、残念だ。
 藤田の初期のエピソードを、ああこの人はこの当時はこんなスタイルで仕事してたんだと想像するとより面白い。
 しかし、堀江の、「儲かる~」は、読み応えがあるのは上場するまでの148ページ目の章までで、それ以降は社員や元社員達の自慢話なのであまり参考にならなかった。

「ヒルズな~」はそれぞれの自分の本であえて語られていない、周囲から見た客観的な情報だ。
これらは、もうかれこれ前の出来事になるけれど、見ないでいいことを見ずにすまし、今でも参考になることを見つけることができた。
9割読む価値がなくても、絶対残り1割に参考になる部分があるのは、堀江の本を読んでよくわかった。
あとは、いわゆるITバブルといわれていた中で、そこでどんな人間が動いて、何を考え、何に翻弄され、何を無視してきたのかが見れたことだ。
 これに、宮内義彦の本と、竹中の本と、小泉純一郎の総理就任前まのでの郵政関連の著作を読み直したら、小泉構造改革とかテレビが勝手に作ったイメージとは違う世界が見えてくると思う。

 年次改革要望書に書かれていたことが実行されたから日本政府の施策がアメリカの陰謀だとかいう短絡的な考えからも、距離をおきたい。頭が悪くなる。
 何か理不尽な事に対して、おかしいと呼びかけることは大事だと思う。でも、付和雷同してくっついていく人達はろくなものではない。
 わしズム見てたらつくづくそう思う。小林よしのりは、時々の論旨がはっきりしてていいんだけど、紺谷典子とかはひどすぎ。。。その他の多くのメンバーもしかり。かなり割り引いてみないと目も当てられない。
 ゴーマニズム宣言の連載元のSAPIOも、ゴー宣連載初期は科学の特集もやってたぐらい多様な雑誌だったのに、今では中国・北朝鮮をネタに商売するわけわからん雑誌になってるし。

 まあ、毎号キムとコキントウとブッシュが交代で表紙を飾る雑誌なんてこれぐらいだと思うけど。
 フランス人記者の、サリン事件は警察の陰謀?とかいうわけわかんない記事がSAPIOに載ってたのを見て、二度と購入すまいときめたのはもう10年以上前だったような気がする。
あの頃の楽天のサイトも今と変わらずショボかったな...。
あの頃から10年たったのが今で、大きくなったのは無駄に増えたYahooのコンテンツだけだと考えると、なんだか空しくなる。
次の10年がいい10年でありますように....。

ホリエモンの言ってることに補足 派遣について

かつて、派遣という仕事は、ごく一部専門的な分野のみに限られていた。
それが、96年頃から、それまで就業機会の無かった人たちに一斉に門戸が開かれた。

つまり、現在派遣切りされている人たちは、法改正がなければそもそもの就業機会が無かった。

最初にテレビや雑誌が派遣業者を非難しはじめたころ、フルキャストのホームページには、「わが社ほど、若年層やフリーターと呼ばれる人に就業機会を提供している企業はない」という掲載があった。
それは実際その通りで、問題はそこからどうやって次にいくか、つまり安定した正社員になろうとするかどうかが、派遣を手段として割り切るかどうかで人生変わってしまう分岐点だった。

自分はそう遠くない一時期、派遣社員として働いていたことがある。
コールセンター、イベント設営、引越し、官庁、それは雇用保険もない奴隷だ。

今も社会の中で生きている日々雇用という制度。一応は月契約だけど、日々更新される形式の契約。
一体自分がいくらピンハネされているか、解雇?された時に知ることができた。

コールセンターでの時給は1000円。一日8時間で8000円。
受注元からセンターに支払われる金額は、一件の電話あたり2000円。
オペレーターのノルマは一日20件の電話を「受ける」こと。つまり親の取り分は一日最低40,000円

単純に人件費の8000円を引いた一日の利益は3,2000円。そしてオペレーターが200人ぐらいいたから、一日6,400,000円。

640万円。

そしてさらに悪しきことに、地方自治体の後押しで、オペレーターの人件費のほとんどあるいは半分、そして施設の家賃・水道光熱費まるまる自治体から補助されている場合がほとんど。

コールセンターの場合、自治体がお金払って奴隷労働者を拡大生産させるサイクルがあった。

コールセンターは、ほとんど暇なクレーマーが愚にもつかない難癖や脅迫をかけてくる地獄のような職場だった。
自分の運が悪かったのかもしれないが、電話をかけてくる9割は頭のおかしい人だったような気がする。

ホリエモンが言っているように、メールですませれば1分で終わる人がほとんど。
そして、そもそもネットがつながらないという人には携帯メールで対応すればいいのに。

自分の場合は、運よくそんなひどい職場とは全く別の自分の適職かつ正社員になることができた。

たまさかの僥倖。滑り込みセーフ。
やればできる。よくがんばった自分。

派遣しながら就職活動2年以上。

2度入院もしたし、まさに地獄の日々だった。

自分の中で一番の救いは、派遣地獄に落ちる前に医療保険に入っていたこと。
自分の人生はこの先困難が待ちうけ、今は健康体でも必ず身体的なクラッシュがくると予測していた。

見事に当たった。そして入院してちゃんと回復できた。
入れる時に医療保険は入っておいたほうがいい。年をとると、後々入れなくなるらしいから。

たかだか月数千円の掛け金。払っておいて損はなかった。
しかも国内系は話にならないので絶対外資系の保険会社。

やがて退院したころ、フルキャストやグッドウィルが設備費名目で天引きしていたお金が、社会的に大問題になった。
一斉に返還し始めたが、名目上は保険や備品代での徴収だったはずだ。恐らく実際はそんなことに使っていなかったいうことで返還されはじめたのだろう。よくわからない。

そして、全国の港での派遣が発覚(港の労働者は派遣をしてはいけないというきまりがある)。

派遣会社から派遣会社へ流れる二重派遣。


そしてこれはまだぜんぜん問題になっていないが、自治体が業務を入札にかけ、第三セクターが落札し、それを派遣業者が請け負う、

「実質多重派遣」
これもまさに奴隷。当然ボーナスなし。しかも合法。

自治体内にいる相当数の日々雇用職員(日当制で一日ごとの契約)も含めて、官民一体となって主に若年層の食いつぶしをしているのが派遣の現状なのではないかと思う。

社会には、ホームレスにもなれない層の悲惨な状況があるのだ。

生かさず殺さず、士農工商の江戸時代の農民のような扱いだ。


問題は、派遣で働いている人が、自己実現・自分のライフスタイル・多様な働き方などという名目で隠されてしまっていることだ。
今求職雑誌を見ると、ほとんど派遣であふれている。

これらを見ると、週払い・日払いでの支給などの強調や雇用形態など、募集主がどのような知的レベルで、どのような層を求めているのかがわかる。
ひとことで言えば下品ということにつきる。

心地のよい言葉は自由と同一ではない。

派遣という働き方にひとかけらの自由の片鱗を見たなら、それは誤りだ。
そして早くその構造から抜けることだ。

構造の組み換えは個人の力ではどうしようもない。

職安・ハローワーク・そしてその他の国の職業紹介所(こんなのがあるんですねー)には、極力派遣事業者への紹介が排除さる仕組みになっている。
窓口の職員が馬鹿だったらそのまま派遣に流れてしまうけど、一応はこれは派遣だけどいいですか、と確認ぐらいはとるだろう。
派遣業者がしぶとく入り込んでいる部分もあるけど、自分は、これは誰もが意図しえなかった偶然だと思う。

もしかしたら、早く選挙をするしかないのかもしれない。
なぜなら、ほとんどの日本の選挙では黙認されているが、政治家の候補者の事務所では、訪れた人にご飯を食べさせるのが通例だからだ。

おばさん連中が無料で働き、炊き出しをし、候補者や運動員に飲食を提供する。
ケースによっては供応だが、あんまり摘発されていないのを見ると、ちゃんと合法的にやっているのかもしれない。

大量の派遣切りされた労働者の無料炊き出しの場としてはひとつの受け皿になると思う。
ただこういった層を政治的に動因しようとするのには、党本部を派遣労働者に提供しようとしている社民党には無理だな。

共産党はイデオロギー一辺倒で旧態以前だし、自民党には議員2世とその取り巻きの集まり。
民主党は、候補者に金持ちのボンボンが入り込んでいるし(この人たちほんとに役に立たない人ばっかり。


少なくとも自分があった人たちはプライドが服着て歩いているようなもんだった。)
だって、日本で派遣労働者が悲惨な目にあってるのに、働かないで人の金で留学して戻ってきてエリート然としているんだもん。
でも全然受かってない、ほとんど落選。ざまーみろ。


それで、関係があるかどうかはわからないけれど、今のこんな世の中にしたのは小泉・竹中だという説。
それ自体はうさんくさくい。一つだけ確かなのは、小泉を圧勝させたのは、普段は選挙にいかない、

あるいは判断力の弱い20代・30代ニート層であったらしいということ。
彼ら元ニートが自活しようとして大量に派遣に参入しようとしたのなら...こんな皮肉はない。

いくら派遣法などの制度を変えても、一旦社会に根付いた仕組みや慣習を取り去るのはとても難しいと思う。
若年層の労働力を使い捨てにし、社会をまわそうという構造は、実は派遣でなくてもアルバイトという形で生き残るかも
しれない。契約社員という実質奴隷に近しい制度も、現に残っているじゃないか。

そこから抜け出ようとする意思はとてつもなく強いものじゃないといけない。
でも、希望はいたるところに落ちている。
ワンコールワーカーから脱出することは絶対にできる。

即現金で支給される生活が、ここちよいぬるま湯と思っているなら、今すぐそこから出るべきだ。
ぬるま湯から出て風邪を引くことを恐れていてはなにもできないのだから...。