たかぱんの「日々のつぶやき」

「たかぱんワイド」から登場の「つぶやき」ブログ。
 時には世の中を斜めや裏から見てみましょう。

NEW !
テーマ:
テレビでヨーグルトと言えば、
店頭からヨーグルトが消える。
それも、特定の種類だけ。
 
以前も、あった。
納豆だの、バナナだの、
突然店頭から一切のそれが消える。
 
売れることを喜ばない店はないだろうが、
不満を言う客への対応のみならず、
へたに増産したり仕入れを増やしたりして、
ぱたっとブームが止むと、
今度は大損につながるとなると、
世間のこの気まぐれは、歓迎したくないかもしれない。
 
ほんとうに馬鹿なことだ、などと言っていたら、
今度は、トマトジュースだ。
これも、その成分がやせるのに云々。
もう、たまったまものではない。
 
私のような一般人だから、
このくらいですむ。
しかし気の毒なのは、
素朴にそれをたしなんでいた人たちだ。
あるいは、それを楽しみにしていた病人もいるかも。
 
場合によって、生死に関わるような人がいて、
普通に手に入るはずのものが入らないとなると、
これは怒るというレベルではなくなる。
 
無責任に、噂話にたかる人々。
トマトで痩せるというのなら、
アメリカもイタリアも皆痩せているだろう。
洒落のつもりで笑いながら買い漁り、買い占める。
その姿の醜さは自分では感じない。
 
そう。
罪とはたとえばこういうことなのだ。
気づいてもいないし、気づこうともしない。
そして自分はそれとは関係ないような顔をする。
人間には、これがしぶとく備わっている。
だから原罪などという神学用語もあるのだが、
原罪や復活を一笑する人々が、
トマトやヨーグルトにたかっている。
 
これは、先だっての「危ない」背景のひとつだ。
実際、連日その「危ない」報道がなされているのだが、
冷静な新聞記者たちも、次々とそれに賛同している。
こうなると、また抽象的な概念の問題ではなくなる。
第二次世界大戦も、ある日突然始まったのだ。
そして、何千万もの人々が殺し合い、また殺されたのだ。
 
まずは必要な人のもとに、
不足しているトマトが届きますように。

テーマ:
君が代を歌わない教師を追い出し、
公務員を一色に染める意図をはっきり出している。
法を思いのままに変え、
部下をナチス党員とし、
ユーゲントを育てるための準備を進めていることを、
どうして止められないのか。
 
今その声になびいておかないと、
自分が選挙で負けると思う政治家たちが、
翼賛会にどんどん加わっていく。
 
このままでは、そのうち、
他の言論も封殺されていくことになる。
歴史の学習で現代史を蔑ろにしてきたツケを感じる。
いや、そんなことをぼやいている場合ではない。
 
事務的に必要な問題を
ひとつも議論しないままで、
抽象的に憲法を変えようとする動きが、
どんなに危ないことであるのか指摘する、
まともな意見がかすんでいくとなると、
ほんとうに、これは危ない。
 
ひとつひとつの小さな営みは、
外堀を埋めるための方策である。
ある時に、一気に坂を転がることになる。
しかし、今かの声に賛同する人々は、
その落下にどんどん手を貸しているということに
気づこうともしない。
 
自分が手を染めているという罪の意識の欠如が、
せっかくのこの国を滅ぼすことを哀しく思う。

テーマ:
今の国会はダメですよ。
すぐに決まらないじゃないですか。
参議院をなくしましょう。
今の国会じゃダメですよ。
 
こんな誘いに騙されてはいけない。
しきりに「ダメ」だというフレーズを連呼して
植え付けようとする。
前世紀の恐怖政治への入口と
同じようなやり方についていく。
 
国会ですぐに決まらないということは、
元来の目的であった。
慎重に審議を進めるという目的だったのだ。
 
そもそも考えてみるべきだ。
何ごとも「すぐに」決まるのが如何に危険なことか。
 
しかし、あの連呼によると、
「すぐに」決まることこそ
至上の目的であるかのように思わされてしまう。
 
それは様々な陰の欠陥を後で見いだすことにつながる。
また、特定の権力者の意のままに
法も予算も通していくということにつながる。
 
いや、「つながる」のではない。
それを意図して、
あのように主張しているのだ。
 
なんでこんな声になびいていくのか。
 
(続く)

テーマ:
自転車事故への警鐘が
テレビで特集されていたら、
自転車が悪いという変更番組だ、と
意見した人がいたようだった。
 
印象では、そんなことはない。
つまり、自転車を運転する自分に
非があるようには少しも言われたくなかった人が
ファクシミリを送ってきたのではないかと思う。
 
番組中、
店から歩道に出てきたお年寄りに
小学生の自転車がぶつかったという事例が紹介された。
その親は、
店から出て来るなど、
大人でも子どもでも察知できない、と言い訳していた。
 
冗談じゃない。
壁から人がぬっと出てきたわけではない。
店の出入り口から人が出入りするのは当然のことだ。
それを予測しなければ「車両」は運転できない。
 
自転車が悪いか、車が、人が悪いか、
そんな議論をしている間は、
しょせん他人事の気分でしかない。
自分が、自分の意識が、どうなのか。
 
要するに自転車マナーなどという言葉で言われているのは、
運転者の考え方ひとつなのである。
制度や機能の問題もありうるが、それはむしろマイナーだ。
 
右側を突っ走る自転車。
一旦停止など殆ど見たことがない。
横断歩道を乗ったまま走る。
歩行者すれすれに疾走する。
両耳にヘッドホン。
携帯電話で話ながら。
スマホでメールか操作をしながら。
タバコをふかしながら。
 
これでは、残念ながら自転車を擁護できない。
 
車もマナーが悪いことがある。
しかし、マナーの悪さが目につく車は、
百台に一台あるだろうか。
なんだかんだ言っても、免許制度や罰則制度は大きい。
自転車の場合は、罰則も無きに等しい。
気持ちのよい運転をしている人が、
半分以上いるかどうか、私は賭けられない。
 
後方からの危険防止に、
バックミラーを付ければいい、との提案もあった。
意味がないとは言わない。
だが、たとえ付けても見なければ同じことだ。
 
きまりは守らなければならない。
こういう考え方が、そもそも、ない。
一番の問題は、そこにある。
きまりは守るのが前提、という考え方があって
初めて、様々な制度や装備が検討されるべきだ。
でないと、すべては不毛である。
 
これが、
キリスト教の福音理解にもつながることは、
先日考えていた。

テーマ:
周囲の情報が広く目に入るべき場合だ。
それは、紙の辞書の得意分野だ。
 
誰もが経験がある。
何かを辞書で調べているとき、
別のものが目に入り、「へぇ」などと感心する。
ときにそこから脱線して、別のものに夢中になったりもする。
へたをすると、そちらに変更した方が
楽しくなることさえある。
 
自分の「これ」という計画からすると、
それは無駄なことだ。
行く先を決めた旅、訪問地を決めた旅しか要らないのか、
それとも現地でふと惹かれたものに向かい、
思わぬものに触れる楽しみが旅にあってもいいと思うのか。
そのような違いに近い。
 
「これ」しか調べないのは、
かなりの知識がある人にはいい。
また、本当に「これ」しか調べる必要がない人にはいい。
言葉を変えれば、リテラシー能力の高い人は、
つねにピンポイントで探して
目的に辿り着くことができるかもしれない。
 
だが、中学生にはどうだろうか。
少なくとも、役割を分けるべきだろうと考える。
「これ」を探すときに電子辞書、
そうでなければ紙の辞書、という具合に。
 
つねに電子機器が便利で優れているとは限らない。
様々なケースに対応できるようにしてもらいたい。
そしてまた、電力を使わなくてもできる仕事を
ひととおり覚えておいたほうが、きっとよいと思うのだ。

テーマ:
電子書籍には、
自分の気に入ったテキストを入れて
持ち運ぶことができるという、
私にとってのメリットがあると思った。
 
同じく通信機能はないにしても、
以前から広く利用されているのが、
電子辞書というものである。
なにしろ小さなサイズの中に、
何十キロもあるような辞書や百科事典の内容が
全部入っている。
これは知識の宝庫だ。
しかもネットと違い、ガセネタが一応、ない。
ウイルスや、通信障害の影響も、ない。
通信費も要らない。
 
高校生の学習に役立つような、
歴史事典や化学事典などが入ったものもある。
学習で調べたいことについては、まず困らない。
 
最近は、中学生でも、
電子辞書に走っている。
英語も日本語も、
電子辞書でパパパッと調べる。
器用で素早いようだが、
私は疑念をもっている。
 
検索が速いことは認める。
「これ」というものについて調べるとき、
紙の辞書よりもたぶん速いだろう。
その便利な点を認めるのは当然だろう。
 
だが、今言ったように、
「これ」を調べるときに優れているからと言って、
つねにそれでうまくいくとは限らない。
「このようなもの」を調べるのが苦手なのだ。
なにしろ「これ」ならコンピュータは一致するものについて
やたら速く検索できるのであるが、
曖昧なものや類似のものを提示するのは、
電子辞書レベルのチップには要求できないのだ。
 
(続く)

テーマ:
私自身、
電子機器には敏感である。
そもそもワープロやパソコンも、
その初期の段階から
無理にでも購入している。
 
だが携帯電話には
あまり敏感ではなかった。
その前段階のポケットベルも、
職務でなければわざわざ求めなかった。
見えない鎖をかけられているようで、
嫌な思いがしたのだ。
 
いつでもどこでも情報が手に入るとか、
誰とでもつながるとか、
そんなことは大したメリットだとは思えなかった。
そこらに人はいるのだ。
分からなければ訊けばよい。
それよりも、携帯電話というシステムは、
その通信費で企業が儲かるためのものであり、
その仕組みがあまりに明らかだったので、
麻薬のようにはめられて
膨大な通信費を支払わされるのを嫌ったのだ。
 
もちろんインターネットでは、
定額になったらそれは受け容れた。
いくら使っても定額であるのは安心だ。
それまでは、ダイヤルアップで
一定量までは定額のシステムを利用した。
 
しかしまた、
電子書籍には
比較的早くに手を出した。
これは通信費が要らない。
 
電子書籍にはその都度欲しい情報が入らない、と
人は思うかもしれない。
だが私には、
じっくり長期に読むものが必要であるし、
自分の書いた原稿を点検するという意味では、
電子書籍はなんともよいものだった。
 
なにより、聖書全部も簡単にそこに入ってしまう。
重い聖書を持ち歩かなくても済むのだ。
最小の聖書でも、そこそこの厚みと重さがあるのだから。
聖書の通読は、どこででもしたい。
持ち歩けるのは最大の魅力だった。
 
(続く)

テーマ:
また誤解されるかもしれない。
だから気取っているんだよ、と
ぼろくそに言われるかもしれない。
 
だが弁明ではなく、
論旨のために言わなければならない。
 
何も私は、
キリスト教を信じている人こそが
教養のある人だ、などと考えているつもりはない。
信じていない人を教育がない、などと言うつもりは毛頭ない。
 
ただ、
この信仰には、どうしても、
規則に従えないことを悔いる過程が必要であるのに、
日本の風土には、
それを悔いるような空気が一般的にあるわけではない、と
私は思っているということである。
 
そもそも律法違反が罪なのだ、という観点では、
日本では多くの人が、
さっぱり分からないだろうと思うのだ。
 
自分勝手の個人主義はあるが、
神の前にぽつんとひとり置かれる個人主義は、
日本には一般的に生育していない。
 
寂しいから連帯とか絆とかを尊重する空気もあるが、
元来はそうしたものを柵(しがらみ)と呼び、
本音では遠ざけたい気持ちもありつつ、
博多でいう「しよんなか」で
そういうものとしてお上に従う社会であったのだ。
 
「なんで俺だけ捕まるんだ?」
「みんなやってるじゃないか」
こうした反論が当然のことのように出てくる社会は、
この律法違反云々という概念は、完全によそものである。
 
そこへ、罪からの救いとか、
罪の赦しの福音だとか言っても、正直なところ、
「なに、それ?」で終わるものでしかない。
 
信仰なるものは、
これを悲観で終わらせるものではないのであるが、
事実は事実として知る必要はある。
この悲観的な状況の中で、
なおかつ主の力を信頼するという捉え方を私はするが、
この国の風土はまことに、
なんともいえない不気味なものを宿していると、
改めて思わざるをえないのである。

テーマ:
キリスト教は、
この罪の悔い改めが、
人間の側の根底にある宗教である。
自分は律法を守れない、その故に
負い目をもち、神の前に出られないと自覚した者が、
その赦しを与えられるというところに
救いの根幹がある。
 
さて、
日本において、この意識をもった者が、
日本においてクリスチャンとなるのは当然である。
はたして、これをもちやすいのは誰か。
 
それは、日本における庶民であるとは言えなかった。
なぜか。
日本では、規則にきちんと従うことは美徳ではないからだ。
 
規則に従えないことで、
罪意識を覚えるという文化がないのであるから、
聖書の罪意識が生じにくいのである。
 
自分は規定どおりにできない、と悩むのは、
教育の高い人である確率が高かった。
物事を深く思索する人の中に、
考えてみれば自分とは、自己とは、と追究する眼があり、
内省に基づく自己探求が起こるのであり、
そこで初めて、正しくない自分を責める心理が働いた。
 
日本という国の文化形態は、
さぐりながら相手の出方を待ち、
状況に合わせて態度を変えるのが得意である。
そして鋭い刃が突きつけられたときにも、
それをやんわりと包んだりかわしたりし、
いつの間にか骨抜きにして
自己流に変えていくというのがこの国の空気である。
 
まさにそれは「空気」と呼ばれるものだ。
 
明治期以来のキリスト者たちは、
こうして日本のエリートたちであることが多かった。
規則に従いきれない自分を責め悪と認定する、
そこにしかキリスト教の罪は認識できなかった。
日本における「罪」の概念は、違うからだ。
 
(続く)

テーマ:
キリスト教は、
ユダヤ教の一派としてスタートした。
また、ユダヤ教の中から生まれた。
それは、ユダヤ教の新解釈でもあったし、
ユダヤ教の真の実現でもあったと主張する。
 
それは、律法が民族に与えられたことから始まった。
神の律法を守れば神の祝福を得る。
それで、エリートたちが律法を守るのに懸命になるが、
しょせん庶民がそれを守りきれるわけがない。
自然、エリートたちは庶民を見下すようになる。
 
しかし、その律法を守れないままに、
神に愛されているのだということを
イエスが伝えた。
ただそのためには、律法に従えないという罪が
自分の根本にあることを自覚することが必要だった。
自分で律法を守っているぞと自負している、
エリートたちの中でさえ、罪を自覚するところに、
イエスは救いはあるのだと宣言した。
 
その救いは、
イエスが自ら罪を赦すための犠牲になるという、
壮絶な事件によって大きく展開した。
これこそが、キリスト教の核心なのであった。
 
その十字架と復活は、
もちろんイエスのそばにいた弟子たちが継承した。
が、とびきりの敵方なるエリートのパウロがいなければ、
キリスト教は世界的なものになることはなかっただろう。
それを今私たちは、神の摂理と呼ぶ。
 
エリートのパウロでさえ、
律法は守れないという根本的な事実に気づいたのだ。
まして、庶民はまさにそうだ。
だがパウロは、その庶民の救いを確実に告げ知らせた。
律法をきちんと守れないことを嘆くその心の中に、
神の恵みは溢れてくるのである、と。
 
(続く)

Amebaおすすめキーワード