「武蔵は熊本で武蔵になった」
「熊本から遡らないと本当の武蔵は判らない」
熊本の宮本武蔵研究家で知られる島田美術館長
島田真祐氏の弁だ。
巌流島での決闘をはじめ60数回もの勝負に負けたことがないとされる
二天一流兵法の祖である。
各地を放浪し、孤高独行の中に倦むことなく
己を高め続けた武蔵が
“人生終の棲家”として、最後の五年間を過
ごしたのが熊本。
今回、くまもとの武蔵を歩く!と題し
3回に渡りアップします。
まず、はじめは
島田美術館からスタート!。
★財団法人 島田美術館

閑静な高台の住宅地にあり緑の木々に囲まれている
自然を大切にあまり人の手を入れない
強くて男っぽい風格をもった庭がまたいい。
~ 客分として迎えられた! ~
武蔵は
藩主細川忠利の招きにより待遇は、士官でもなく役職もない
客分として暖かく迎え入れられ、武蔵も忠利の知遇に応えた。
その結実昇華が「兵法三十五箇条」となり、武蔵の哲学ともいえる
「五輪書」「独行道」となった。
武蔵は
その「五輪書」を霊巌洞に籠って書いた。
※霊巌洞は最後にアップ予定。
★水前寺成趣園にある細川忠利公(左)と細川藤孝公(右)銅像
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http://ameblo.jp/j-turtle/entry-10861366435.html
http://ameblo.jp/j-turtle/entry-10860440279.html
剣豪人生の集大成ともいえる「二天一流兵法」とは
テレビや映画にも出てくる有名な二刀流のこと。
左右の手に剣を持って構えるその姿はとても勇ましい。
~ 宮本武蔵熊本城に登城す! ~
武蔵はその余生を熊本の城下に送り
先にも書いた当時の城主細川忠利に晩節を捧げていた。
武蔵と忠利の間柄は単なる主人と家来というような関係ではない。
もっと深い心の契があった親友でもあった。
吉川英治は「随筆武蔵」の中での「熊本紀行」に
以上のように述べている。(講談社刊)
熊本には、手向山碑文がある北九州小倉と同じく
武蔵が残した足跡と、それを裏付ける多くの史跡が厳として残されている。
「熊本から遡らないと武蔵は判らない」といわれる所以であ
、熊本があったから人間武蔵が完成されたと言っても過言ではない。
~ 熊本城下の一当地に住居が与えられた! ~
武蔵に与えられた居宅は熊本城東の端、千葉城跡の一角であった。
現在のNHK熊本放送局の玄関前には「武蔵が使用した井戸」とされる
一間(3.3m)四方の石で囲まれた井戸がそれである。
★天守閣を望む右手前のちょっと高い丘が現NHK熊本放送局
熊本城が目と鼻の先にある一等地である。
それは、漂泊の兵法者、武蔵にとって生涯でただ一度得た
“マイホームだった。
天守閣を間近に見ながら新しい生活がスタートする。
★武蔵使用の井戸
すぐ下には坪井川が湾曲して流れており
川で区切られた東側は
、ホテルなど市街地のビルが立ち並び
その中に上通り、下通り、新市街の商店街のアーケードが続き
その周りは、夜はネオンが輝く歓楽街である。
旧居跡の碑は
井戸から直線で100mもない北側の六工橋の畔と
坪井川を挟んで熊本西年金事務所の前に建っている。
★武蔵旧居跡の標木

★剣豪宮本武蔵旧居跡

武蔵は熊本に来てすぐ
山鹿(やまが)温泉・「桜湯」でくつろいだ!
「こんな見事な湯があるぞ」
忠利は自慢したかったのか?
たぶんそうだ間違いない・・・!
※なんども書いているが山鹿はわが古里である・・・(*^▽^*)
“桜湯” には「武蔵ゆかりの湯」として、武蔵の像がある。
但し、現在大掛かりな再生計画で建て直しがあっていて
その姿はみれない。
山鹿市 桜湯の記事はこちら
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
http://ameblo.jp/j-turtle/entry-10800951689.html
ところでいま
熊本城本丸御殿の大広間は昔日の輝きえをみせている
武蔵は
大広間のどこに座したのだろうか、さぞ眩しかったに違いない
そのころの城下はどうだったのだろうか・・・。。。
次回へつづく
本日は以上です。
熊本で遊ぶ。熊本でお仕事。どちらもお泊りなら
→ http://www.kamenoi.com/kashima/ ('-^*)/
小さいから楽しいホテルの経営













