麺処あす花 味わい編
それから、僕は続けて、彼女の所作をみつめていた。左手で麺箱から適量の麺を取り出し、右側にある、沸き立つ釜の中に放り込む。麺は、釜に沈む湯切りザルの中で、怪しく泳いでいるかのようだ。
左手でタイマーを押す。
タイマーを押すその手も奥ゆかしい。
菜箸を使って、右手で釜のなかの麺を、時計回りに4回かき回し、それから彼女は麺茹で場を離れ、1メートル右手のスープ場に体を移す。かなりぶっとい寸胴の中には、肉やら野菜やら、けったいな物体やらが、無造作に配置されグツグツと煮込まれている。
豚骨の臭いではない、鶏ガラの臭いでもない、煮干し系の臭いでもない。なんだろう、さっきからこの臭いの正体を、僕の鼻が、追っているのだ。
さてその独特の、いわば品のある香りを生じさせている寸胴の隣に、半透明な液体の入った小振りの寸胴鍋がある。彼女は丼に茶色いエキスを入れ、その上にこの半透明な液体を注いだ。その丼に箸を入れ、今度は一回だけ、かき回す。と同時に、例のぜんまい仕掛けのアラームが鳴り響く。ピピッ、ぴぴっ、ピピッ。
店内のBGMはなぜか、真夏の果実。四六時中も好きいと言って。ぴぴっ。夢に書いた絵具消して。ピピッ。
彼女は茹で釜のなかからザルをさっと持ち上げ、おもむろに降り下ろす。三度、2振り。二の腕がむき出しになる。ほんのりと赤く染まっている。その二の腕に真夏の果実が墜ちていく。麺は、丼の中にゆっくりと墜ちていく。またもや箸が、今度は2度丼の中を回り、麺の3分の1を持ち上げ、それから渦巻きを描くようにスープの中にそれを沈めた。
彼女はその後、チヤーシュウ、メンマ、ワカメ、ほうれん草、ネギ、を丼の中に配置した。
はい、どうぞ。
二の腕まで袖のめくれたまんまの彼女は、涼しい目と、肉厚の唇で、僕に笑顔のプレゼントをくれる。
出来上がったばかりのラーメンと共に。
味はいうまでもない。
皆さんも味わってください。
この拉麺屋で味わうものは、もはやスープではない。
味わい編、終わり