ギリシア神話の一節に、パンドラの箱に関する物語がある。
細かいストーリーは省略するが、今回取り上げたいのは次の部分である。


パンドラは、ゼウスから決して開けてはならないといわれていた壺を開けてしまう。
すると、壺の中に入っていたあらゆる「悪」が人間界に飛び出してしまった。だが、パンドラが慌てて壺を封じたために「希望」だけが逃げていくことはなかった。
(日本語では、パンドラの「箱」という表現をよく見かけるが、ギリシア語の壺(pithos)であったようです。)


今更ながら突っ込みたいのですが、これっておかしくないですか?


「悪」が壺から出て人間界に充満したのならば、「希望」も壺から開放されてこそ人間界に満ちるのではないだろうか。壺から出るという現象が「悪」については人間界に広がると解釈され、「希望」に関しては逃げると表現されている。壺から出るということの意味は斉一でなくてはならないのではないだろうか。


私は、この斉一性を保った良い解釈をひとつ知っている。上遠野浩平という作家がブギーポップシリーズの「パンドラ」という作品の中で登場人物に語らせた内容である。
私のようにつまらないことにこだわらなくとも、パンドラの寓話の解釈のひとつとして紹介に値するものと思う。
その内容は概ね以下のようなものである。


パンドラが箱を開けてしまうと、中からありとあらゆる「悪」が出てきて、人間界に飛び散ってしまった。この時より人間は「恨み」「嫉妬」「貧困」・・・今日ある様々な「悪」に苦しめられることとなる。
だが、慌てて箱を閉じたパンドラによって、箱の一番奥に眠っていた「最大の悪」が人間界に飛び散ることだけは避けることができた。
その「最大の悪」とは何か。それは「未来」だという。
これにより、人間は明日何が起こって、その後どうなるといった未来を知らずに済んだのである。
どんなに苦しい状況に置かれようとも、きっと明日はいいことがあるのではないかと、根拠もなしに信じていられるのはこのためだ。
「明日は何か良いことがある」この感覚こそ「希望」である、と。


希望とは、いつでも持ち得るが、しかし実に頼りないものだと思う。この表現はそうした希望の希薄さをよく捉えているのではないだろうか。


私がこの本を読んだのはもう10年近く前になるが、この表現はひときわ心に残っている。パンドラの話が出たときは必ず思い出すし、何より「希望」の確かなイメージとして私の中に住み着いている。


おまけ。
知ったかぶりの量子力学で壺から出ることの斉一性を考えてみよう。


思うに、壺の中に入っていた「悪」や「希望」は何かの素粒子みたいなものではないかと思う。
そこで、その素粒子の波動関数は善と悪の2つ状態をとる自由度を持っていると仮定する。
ちょうど、フェルミ粒子の波動関数がその交換に関して反対称であるように、「壺から出る」という現象に関して、善と悪の交換により反対称化するのではないだろうか。
かくして、「壺から出る」という現象は「悪」については地上に存在することを意味し、「善」については地上から消えてしまうことを意味する。


(うわ、適当。世界中の物理学者に申し訳ない。)
(まあ、いいじゃん。)
with music "ロストマン" by Bump of Chicken