【幹部必見】信教・信心の自由について | 維新の翔ぶがごとくに

維新の翔ぶがごとくに

命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。
この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)をともにして国家の大業は成し得られぬなり。

西郷隆盛(1828年~1877年):

【日本国憲法第20条】には、信教の自由について規定しています。

条文を見てみると、

1.     信教の自由は、何人に対してもこれを保障する

2.     何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない と、明記してあります。

 

ここで注目すべき点は、1.信じることも自由であれば、2.強制されないとも書いてあります。もちろん、我々には天法もあり、憲法に束縛されるわけではありませんが

 

参考までに(ウィキペディアより抜粋)

信教の自由とは宗教に関する人権一つです。

個人が自由に好むところの宗教を信仰する自由(積極的自由)、また、特定の宗教の信仰を強制されない自由(消極的自由)。思想・良心の自由の宗教面での保障として捉えられます。特定の宗教を信仰していたり、していなかったりすることによって、いわれのない差別を受けることのない権利をいいます。(引用終わり)

 

●拉致監禁問題

統一教会は拉致監禁問題に対して戦っています。

本人の意思に反して拉致監禁され、強制改宗などあってはならないことは当然です。


●統一教会内の信教の自由の問題例

それでは、統一教会内ではどうなのか?

ということについて検証してみたいと思います。

言わずと知れた、顕進様、郭先生、UCI問題への取り組みに関してです。

 

昨年1年間だけでも、教会は全世界に巡回して、一方的・高圧的・断定的に

「顕進様・郭先生は堕落したアダム・天使長」というネガティブキャンペーンを展開してきました。

「真の父母様宣布文大会」、

公職者の「忠誠盟誓」ビデオ撮影。応じない公職者は罷免になりました。

プサン教会では、顕進様のために祈ろう、と説教した教会長・副教会長が罷免になり、この対応に抗議した食口達の署名が数十人集まりました。

 

それでは日本ではどうでしょうか?

日本にも、この流れは押し寄せてまいりました。 

壇上からの一方的な説経で、礼拝の神聖さはなくなり、心霊の復興はなくなりました。

普通に疑問を持つ食口や、おかしいと感じる食口に対しては「郭グループ」扱いです。心情蹂躙された食口も多いのではないでしょうか?

果たして、牧会者は本心・良心から、このような話をしているのだろうか?と思います。

このような取り組み、このような説教で牧会者は永遠の生命に対して責任が持てるのでしょうか?

否です。食口の永遠の生命を誤導していると言わざるを得ないと思います。

 

これらの状況は、外に対しては拉致監禁問題に取り組みながら、

内に対しては、信教・信心の自由を阻害しているのではないでしょうか

 

明らかに、天法から見ても、憲法から見ても、間違っていると思います。

 

その結果、教会は多くのものを失いつつあります。

 

人材・経済・土地・財産・信頼・・・・・。

 

2013年まで1年もありません。

多くの人が集まり、経済、土地、財産、信頼、寄ってこなければならないのに・・・・。

信頼を築くのには時間がかかる、失うのは一瞬。
しかし、神様・ご父母様はみ旨を捨てることはできない

 


にほんブログ村