昭和17年1月11日、日本軍は、

フィリピン・ミンダナオ島ダバオ飛行場からインドネシアへ、

九十六式陸上輸送機にて第一次降下隊、

堀内豊秋海軍中佐以下323名が飛び立ちました。


学校では教えない ~本当の日本の歴史~ 



インドネシア、メナドでは地元住民に古くから、

「黄色い肌をした英雄が北方から現れ、白人どもを追っ払ってくれる。

そしてジャゴンの花が咲く頃には、黄色い英雄は去って行く」

というジョヨボヨ伝説があり、堀内中佐達の落下傘部隊は、

インドネシアの人々から絶賛して迎え受けられる結果となりました。


第1次降下隊は飛行場の真ん中に降り、

第二次降下隊が敵の背後に降下攻撃し、

兵士全員の活躍によりオランダ軍は総崩れとなり、山中に敗走しました。


北スラウェシを占拠した堀内中佐は、インドネシア人傭兵に塩を渡し開放、

オランダが禁じていた団体行動と集会を許し、教育を与え、

差別を撤廃し、自由を与えました。


また兵士に対しては、

「現地人を大切にする事。絶対に現地人に迷惑をかけない事。

女子に絶対手を出さないこと」を徹底しました。

インドネシア人を想う行動により、インドネシアの人達は、

日本軍に好意的になり、積極的に協力しました。

堀内中佐の人柄、人望は現代まで受け継がれています。


学校では教えない ~本当の日本の歴史~ 


終戦後、堀内大佐は巣鴨に収監され

その後オランダ軍によりメナドへ連行され、

国際軍事法廷で有罪、昭和23年9月25日銃殺刑となりました。
裁判によると、1942年2月オランダ軍将校1名、同兵士1名、

インドネシア人傭兵10名が投降した際、部下の将校が軍師を殴った事件、

この際堀内中佐はその暴行を制止しましたが、

上官としての責任を問われ有罪となりました。

軍事裁判とはいえ、

実際は報復裁判であり、訴追だけで有罪になっているのです。
堀内大佐の裁判での態度は、一切の言い訳もせず、

物静かで裁判官も敬服するほど立派な態度であったといいます。

そして戦犯といわれる方々の中唯一、オランダ側は儀仗隊を付し、

武人として敬意を表し栄誉礼をもって処刑にのぞんだそうです。


1945年8月17日、インドネシアでは、

連合軍による再占領の直前に高らかと独立宣言文が読み上げられました。
独立宣言文の日付は皇紀2605年となっています。

これはインドネシア解放の為に、

己を捨てて連合に対し戦った日本に敬意を示しての事です。

1995年8月のインドネシア独立50周年には、

戦勝国による軍事法廷によって、

スラウェシ島で銃殺刑に処された堀内大佐の慰霊碑をメナド市が建立し、

大佐の功績を讃えました。