母が膠芽腫と診断されてから~私の気持ちの変化~ | リダと母の闘病日記~脳腫瘍と向き合う~看取ったその後~今度は夫が悪性リンパ腫に(R3年2月)

リダと母の闘病日記~脳腫瘍と向き合う~看取ったその後~今度は夫が悪性リンパ腫に(R3年2月)

H27年2月に母がグレード4の膠芽腫と診断されました。母の事や日々の出来事を綴っています。H29年8月14日に永眠、H30年3月7日に父が突然死。そしてR3年2月に夫が悪性リンパ腫に。。。

1年9カ月前、母の脳に腫瘍があると聞いた時の衝撃を今も鮮明に覚えています。

ハンマーで頭を殴られたかのような衝撃・・・。

前日私は大好きなリダ君のライブで弾けて気持ちも高揚し余韻に浸っていました。

聞かされた瞬間、その余韻が一気に冷め・・・・脳に腫瘍って何???なんで母が???

どうして・・・なんで・・・・の繰り返しでした。只々、涙があふれました。。。

 

それまで脳腫瘍について何の知識もなかった私はPCで調べまくり・・・。

不安と闘いながらとにかく母に手術をして欲しいと皆で説得していました。きっと良性で大丈夫!と自分に信じ込ませて・・・。

 

でも、調べていくうちにグレード4の膠芽腫との診断。。。そして余命1年の宣告。。。

落ち込みと絶望感。この頃は寝ても覚めても泣いてばかりいました。

 

術後は母の性格が180度変わってしまった事への戸惑い、悲しみが襲ってきました。

それと同時に自分の仕事、これからの生活についてどうしたらいいのかという不安。

それでも前を向いて希望を持って母を支えていこうと自分を奮い立たせていました。

でも、母の自殺願望、以前の母とは思えない言動、行動に悲しみ、現実を受け入れられない日々が続き私の精神状態もおかしくなり笑う事すら忘れていたと思います。

 

そして母も私たちも少し生活スタイルに慣れてきたかな・・・と思った矢先の重積痙攣発作。

1時間以上痙攣が止まらなかった母を目の当たりにした時はほんとに怖かった。。。

痙攣を起こした後の生活はさらにいつ起こるかわからない不安とさらに激しくなる母の不穏にどう対応していいのかわからず、悲しみの感情が苛立ちに変わる事もあり、病気のせいだと頭では理解しているのに怒りの感情が出てきました。色んな感情が入り乱れながらも母と過ごせる日々に感謝をしながら過ごしてきました。

 

再発がわかったのが手術をして8か月後・・・・・

しかも再発した場所が言語中枢のど真ん中。

近々話ができなくなるかもしれない、もう母と話ができなくなるかもしれないと思うと母がどんなに不穏で怒ろうとも話ができるだけでいいと思う様になり、この頃から今の現実を受け入れる気持ちが出てきました。

それと同時に辛そうな母を見ていて抗がん剤を止めてもいいのではないかと思う様になりました。残された時間を苦しみで過ごすより少しでも穏やかに過ごせる事の方がいいのではないかと・・・・

でも母は薬の効いているお陰でQOLを保てているのは事実。。。どうする事が母にとっていいのか・・・・いまだに答えが出せずにいます。

 

今年の4月に大腿骨骨折をした時にはよくて車椅子生活と言われたり、この頃は母自身も生きる気力さえ失っていたのでほんとに凹みましたし、私たちも疲れがピークで家族同士の言い争い、ぶつかり合いが出てきました。どこにぶつけようもない感情が爆発しました。

↓この頃です・・・

それでも母は歩く事への執着が強く、リハビリを頑張ったお陰で少しずつ歩ける様に・・・

この事で母も生きる希望が出てきて、私たちも話し合い、できる人ができる時にできる事をしていこうと最低限度の分担を決め現在に至っています。

 

私自身も帯状疱疹になったり、髄膜炎で入院したり・・・・

これまで突っ走ってきた私にとって入院した事は一度リセットするいい機会だった様に思います。

今も仕事をしながら(減らして頂いてますが・・・)毎日母の所に行き、できる事をしています。

 

完治できないと言われている膠芽腫。。。

病状が悪化する時は必ずやってきます。これはどうあがいてもいずれは。。。

それまでの生活をいかに穏やかにしてあげられるか、母を笑顔にしてあげられるか。。。

 

不安と恐怖は心の中に常にありますが、今を大切に過ごしていきたいと思ってます。

 

今日は仕事に行く前に実家に行きましたら、母の方から外に散歩に行きたいと言い出し、

父と一緒に外玄関まで仕事に行く私を見送ってくれました。

小さくなった父と母の背中をバックミラーで見ながら、涙がこぼれました。

 

そして・・・何より母の笑顔が嬉しかった(*^-^*)


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