東京杉並、本應寺から住職と尼さん御一行が丸森においでになった。各地ご縁のある場所を巡って途中立ち寄られたそうな。集まれるごく少数の近場の人を知人が招き、念仏会が催された。ちょうど一年前もこの知人からお誘いを受け、参加した。一巡したんだな…と感慨にふける。変わったもの、相変わらずなもの、いろいろ確かめる。

参加者は上人たちを含め7人。ささやかに行われた。

上人は「念仏」をツールとしても素晴らしいものだと世俗的立場の方々にもわかりやすく説いた。確かに。シンプルで余計なものがなく、わかりやすい。そして三昧に入りやすい。

だが、自分の中で、すでに自分なりの道具はすでに持っている。これだという形があるわけでないが、強いて言えばこの肉体すべて、なのかな。感覚そのもの。日常生活を送る上で目の前の現象は確かな現実でそれ以上のものはない。だが、ふとした瞬間にそこに潜む何かに気付くことがある。多分すべてのものに常に内在しているのだろう。人間が認識できるのは非常に狭い範囲。可聴領域しかり、可視光しかり。それだけがすべてというのは思い込みに過ぎない。

どうなんだろう。何かを気付かせるために何らかの存在がある事象を通してシグナルを投げかけていると感じる時はある。この前らっこさんと話していた時、彼は、事象くんが教えてくれる、とか事象さんのメッセージとか、事象そのものを存在として認識してる(のか?)ようだった。

まぁよくわからん。

ともかく、すべては方便である、ってことは何となくわかる。起こり来る事象、そこにあるものの存在、それらを感知する自分、ひとつひとつの感覚。そして今ここにいるということ

とりあえずいちばん認識するのにわかりやすいツールとして五感と五体を与えられているので、それらを駆使して別の観点、視点からものごとを見つめることで、より高い次元での理解をえられるよう心がけたい。

自分の足場を見失うことにもなりかねかいので、目先の現象に現実的対応をする必要はあるけど。

あまり、考えないのがいいね。


らっこさんと話していて自分で言ったコトバ。

「「自然」と口にした段階ですでに「不自然」である」

わかっているふりとか雰囲気を醸し出すのは得意なんですよ。ふふふ。



■レビュー特典5%OFF■灰の中から文字が現れる不思議なお線香です。【文字が現れるお線香】「経...

健康運・財運アップの梵字「六字真言」ストラップ。皮を使用した高級感の有る商品です。スモー...

蝋燭(ローソク)/蜜蝋 夕映(小)南無阿弥陀仏 14本入り