昭和56年(1981年)

僕は37歳。


立花証券の石井久社長の話を聞くことができた。


その中で社員が一生懸命働く条件を聞いて

手帳に書き込んである。


1、収入

2、地位(将来性)

3、魅力ある上司。


上記が条件であるが、

この条件を達成するためには拡大戦略が重要である。


10年間売り上げが同じ程度では

社員が一生懸命働かなくなる。



当時僕は新しいビルを建設してから6年が経過し

売り上げは赤字にこそならなかったが、ほぼ横ばいである。


このままだと社員が一法懸命に働かなくなる。


危機感をもって僕は新しい業態を

模索していたのである。


現在の社会は大手小売業も働き方に個人差があると

認める方向である。


例えば、全国を転勤する総合職と

出世しなくても地域で暮らしたい地域社員を

作るなどである。


時代により企業も変化する必要がある。



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昭和55年(1980年)

僕は36歳。



この年、12月。

日本がアメリカを抜いて自動車の生産台数

世界一になった。

1000万台突破の堂々たる自動車大国になった。


僕の青春時代から見てきた日本の車は

故障が多く、アメ車があこがれの的であった。

昭和30年代は高速道路も100キロでない車が多かった。


それから20年、いつのまにか燃費が良く、故障もせず

昭和55年、世界一になった。


僕も最初は信じられなかったが、

米国でもどんどん日本車のシェア―が増えていった。


日本人の勤勉は自動車も米国車よりも早く厳しい

排ガス規制をクリアしていった。


日本も安かろ、悪かろの時代があったのである。


だが、品質の良さは中古車にも表れていて、

中古車も人気が高い。


1970年代から自動車の通商摩擦が起こっていて、

1980年の今年、日本が世界一になるとともに

米国のビッグスリーは21パーセントの販売ダウン、

軒並み赤字になっていった。


日本は失業も輸出していると、

アメリカ議会が強硬になり、

本格的に日本に対して圧力がかかってきた。


レーガン大統領が誕生し、政治決着で日本は

自主規制と対米投資を余儀なくされていった。


今では米国で生まれた、レクサスが一時日本に輸入されて

販売されるというアメリカへの貢献ぶりであった。


長いこと輸入で食べてきた日本だったが

貿易摩擦を経過して内需を増やし

GDP の構造改革に成功していく。


やがて、失われた20年がやってくるが

これも世界に類を見ないデフレの経験である。


この経験は世界が今後日本に学ぶべき

ことになる。


今、ヨーロッパ諸国の大手銀行が軒並み

大苦戦に陥っているが、日本の銀行は

経験済みである。


自動車だけでなく、多くの貴重な経験が

日本には山済みである。








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昭和55年(1980年)

僕は36歳。



平成28年の現在、リオでオリンピックの

白熱の戦いが毎日続いているが、

昭和55年5月24日、日本はアメリカの要請で

JOCが採決してモスクワオリンピック不参加を決定した。



ソ連のアフガンへの進攻に対するアメリカの抗議として

西側諸国にモスクワをボイコットするように要請があったが

西側諸国で不参加を決めたのはアメリカと日本、西ドイツとカナダの

4か国だけであった。



日本では参加するものと思い、多くの選手やスポンサーが

準備をしていた。


しかし、ボイコットの知らせに金メダル確実視されていた

選手たちは大変なショックを受けた。


4年に一度のオリンピックをボイコットすれば、8年間オリンピックが

ないことになり、ピークを長い年月かけて調整してきた

選手たちにとって致命的なことであった。


マラソンの瀬古や宗兄弟。

柔道の山下などである。


山下はその後のオリンピックで大けがを押しながら

金メダルを取り、日本中涙のもらい泣きをした。


一躍、時の人になった山下の金メダル獲得に動いた人がいた。


現在の山下夫人である。


山下がデパートに紳士服を買い物に来ていて、

山下に照準を合わせた現婦人の山下獲得作戦は

これまた多くの日本人の拍手喝さいを

浴びたのである。


こんな、美談もあるが、

多くの選手がこの時をピークで選手生活を

断念した。


オリンピックは平和の祭典であるが、

政治に泣かされたモスクワ五輪であった。



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