僕の現代史(お袋の戦略)

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平成11年(1999年)3月。

僕の長男は結婚式を八王子のホテルで挙げた。

 

そのときに僕の両親も出席した。

 

お袋にとって理想の形で3代目までの後継者が着実に育っていった。

 

初代の妻としてお袋は先手先手と物事を進める人だった。

それはお袋の父(僕のおじいさん)に非常に似ていた。

 

お袋は初代の妻として商売が非常にうまかった。

愛想がよかったのである。

だから、お客さんを逃がさなかった。

皆、喜んで帰って行った。

 

そんなお袋が男の子を3人産んで、長男を跡継ぎにすることに成功し、次男三男はそれぞれ大学へ行かせ、

次なる戦略は三代目までの道すじを敷くことであった。

 

孫が生まれ、男の子であったので、ものごころつかぬうちから

その孫に対して、

「おまえはこのお店の社長になるんだよ。」とことあるごとに

吹き込んでいた。

 

だから幼稚園にいる頃から、社長になると思って育ったようだ。

 

お袋にとって孫の結婚式に列席し3代目が嫁さんもらって

故郷に戻ってくる道筋が見えたことはこの上ない喜びであったろう。

 

お袋はその後、近くのお寺に自分たちのお墓を購入した。

現在は6年前に90歳でなくなり、父とともに入っている。

 

なくなってから遺品を整理していると、

お葬式にはこの写真を使ってください。

お葬式にはこの定期預金を使ってください。

孫達へは0万ずつの定期預金を送ります。

 

など準備万端である。

 

お袋は上州のかかあ天下。

職人であった父に仕え、家を守るという一点は誰にも譲らず

徹底していた。

それは江戸時代から続く家を守るという時代劇を見るがごとく

頑固な一面もあった。

 

お袋は父の家系が皆早死にだったので、

「お父さんに丈夫で長生きをしてもらう。」

といって、自分の責任として父がお酒を飲み過ぎないように管理していた。

旅行に行くと必ず、お袋が飲み過ぎに待ったをかけるので父が

一人で行く旅行は周りの取り巻きが喜んだ。

とともに父も羽目を外すのであった。

 

そして、様々な健康補助食品を自分で作って父に飲ませていた。

カリン酒、梅酒、まむし酒、梅干し、等々の貯蔵庫があった。

 

お袋は思ったことは言わずにはいられない性格で

衝突がよく発生した。

泣いた人も多かったろう。

 

だが、自分の計画は実行するという優れた一面は見事であった。

 

お袋は6年前父を95歳で見送り、半年後に父の長生きを達成して

永眠した。

 

平成11年の孫の結婚式はお袋の願いが孫に届き

いい嫁さんを故郷に連れてくるという二重の喜びで

幸せなひとときであったろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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僕の現代史(長男の結婚)

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平成11年(1999年)

僕の長男が結婚することになった。

 

長男は家具屋の社長になるために相模原のアイワールドで

修行をしていた。

その職場で彼女を見つけたという。

 

長男が幼稚園に通っている頃、僕は学習机に関連して

仮面ライダーショーなどのイベントをやった。

大勢の観客が来ていた。

そのときに司会者が長男にインタビューした。

 

おまえはここの家具屋のせがれか。

いつか社長になるのかと聞いた。

長男は迷うことなく、社長になると答えた。

 

印象に残っているシーンであった。

 

それから一貫して長男は社長目指して高校大学と進み

アイワールドでの修行の道を選び、しかも嫁さんを連れて

近日入社予定となっていた。

 

僕とは雲泥の差であった。

 

僕は家具屋を継ぐのがいやで勉強をしまくった。

そして中学3年の時に、合格確実の成績で先生からも進学校を強く進められた。

お袋に家具屋を継ぐのはいやだというと、お袋は3人兄弟で話し合いなさいと言う。

 

話し合いの結果、全員が吹けば飛ぶような家具屋はいやだとなった。

 

お袋に言うと裁定が下った。

全員がいやなときには長男が家を継ぐことは昔から決まっている。

長男は大学は出てはいけません。商業高校へ行きなさい。

次男、三男には大学へ行かせます。

その代わり、私たちがいなくなって長男が後を継ぐときには

資産を要求しないで、はんこうを押しなさい。

 

それで僕の跡継ぎが決定した。

 

それからもいろいろあったが、僕が継いだのである。

 

よくよく考えると、お袋の考えているとおりの人生展開が親父や

おふくろがなくなった後も続くのであった。

 

お袋はどうしてこうも自分のいなくなった後のことも考えて日頃行動したのであろうか。

そのあたりを次回述べてみよう。

 

 

 

 

 

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平成10年(1998年)

2月7日、長野オリンピックが開催された。

 

僕の印象に残っているのは500メートルで清水の圧倒的な

強さであった。

 

それとともにジャンプの天才少女荒川が何度も転倒して不本意な

成績で終わったことである。

 

その後、ベテランの域に入ってきたときに、天才ジャンパー浅田真央が登場しもしかしたら特別枠でオリンピックへ出られるかもしれないということがあった。

 

もし浅田真央が選ばれれば本調子でなかった荒川はオリンピックへ出ることができなくなるというピンチに立たされた。

 

幸いぎりぎりで出場できた。

 

出られなかったかもしれないオリンピックで荒川は演技をした。

僕はそのときに早起きして見ていた。

 

最終滑走のロシアのスルツカヤは金メダル確実、ジャンプでの転倒は見たことのない選手であった。

だが最終滑走のプレッッシャーは想像を以上で転倒を繰り返した。

 

荒川は完璧な演技で終了した。

荒川のイナバウワは美しかった。

金メダリストのイナバウワは世界を魅了した。

 

その後、日本全国の少年少女がイナバウワをまねをしたりして

スケートを始めたのである。

 

イナバウワは得点にはつながらないのだそうな。

荒川はイナバウワで休憩していた。

 

しかしやわらかい。

頭が真下を向く。

 

あんな見事なイナバウワはその後数々の選手が取り入れているが見たことがない。

 

ちょっとした歴史の一瞬であったが、見事金メダルを獲得した荒川選手の声が今日もテレビから聞こえてくる。

永久に金メダリストとして呼ばれ、結婚もして幸せな人生を歩んで

いる。

 

でも、土壇場、修羅場、正念場の人生の3場を経験していたからこそ得た金メダルではなかったろうか。

 

などと思うのである。

 

 

 

 

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