僕の現代史(おもいで酒)

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昭和54年(1979年)

僕は35歳。



この年、おもいで酒が大ヒットした。


この年はヒット曲のオンパレードであった。

夢追い酒、魅せられて、関白宣言、北国の春。

などなど。


その中でも「おもいで酒」は僕にとってもうれしいことであった。


なぜかというと、小学生だった小林幸子が

美空ひばりの再来かという騒ぎがあってから

10年以上たち忘れ去られたころ、ふたたび

彼女の声がラジオから流れてきたからである。


僕は小林幸子がなぜ消えてしまったか

不思議でならなかった。

必ず大物になると思っていたから。



ラジオを聴いていて小林幸子の苦労と苦難の

売れない時代の話を聞いた。


演歌はやはり苦労しなければならないのか。


このラジオは車で高崎の夜の街、柳川町に

差し掛かった時に聞いた。


だからおもいで酒がかかるとすぐに、柳川町が

頭に描かれるのである。


今ではストリップ劇場などはやらないが、

このころは盛んであった。


特に伊香保温泉に行くと宴会場にお座敷ストリップが

やってきた。


その時の登場曲が「おもいで酒」なのである。


これには参った。


なぜだ。


どうやら彼女たちも苦労をしていて、

苦節十数年の小林幸子の苦労人生に共感しているらしい。


いつか必ず私だってという

意気込みか。


だから、思い出酒を聞くと、

伊香保温泉のこのシーンも同時に思い出されて

不謹慎で申し訳ない。


さっちゃんごめんなさい。



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昭和54年(1979年)

僕は35歳。



アメリカとも国交を樹立し、日本とも国交を

樹立した中国は急速に経済を回復させていく。


1976年に毛沢東がなくなり、4人組が失脚すると

鄧小平が復活した。


長い間、文化大革命によって経済も国民生活も

貧困と食料不足にあえいでいた。


前年の78年から人民公社を解体、

生産請負制に移行する。

途端に食糧不足が解消した。


文化大革命により1億人が被害にあったと

推定されている。

鄧小平もその一人であった。


それらを批判しつつ、鄧小平は次々手を打った。


経済特区を4つ作り、

外国企業もOKにした。


資本主義をしても良いことにした。


深圳などは畑と野原のようなところが現在では

香港のようになってしまった。

25万人が800万人になるという短期間の

成長の街である。


先富論、と言ってよく働くものからどんどん

豊かになっていいですよというものだ。


これを社会主義市場経済論という。


中国においても海岸ぞいからどんどん豊かになっていった。


やがて中国全土、全国民が豊かになっていくだろうという

鄧小平の考えであった。


アメリカともお付き合いし、日本も毎年大量のODE で

援助し、中国が資本主義国のようになっていった。



あたかも、社会主義を修正し、資本主義に移行

するのかというな気持ちにさせる政策であった。


だから学生たちが勘違いして

民主主義に移行できるのではないかと

思うようになった。


学生たちにとって、鄧小平は

仲間だと思っていた。


と、中国から日本に帰化して日本人になった

石平氏は語っている。


日本が中国と仲良くやっていた

反日などない時代があったのである。






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昭和54年(1979年)

僕は35歳。


この年、正式にアメリカ合衆国と中華人民共和国が

国交を樹立した。

これを受けて鄧小平は1月28日、アメリカを訪問、

ジミーカーターと会談した。


そして、アメリカの進んだ文化や工場などを見学、

なんと2月25日までいたのである。


徹底してアメリカの見学をしたことになる。


鄧小平の心にはあまりの経済力の違いに

暗澹たる思いもあったと思う。

だが、いつか必ず追いついてみせるという

思いもあったのではないか。



これよりもさかのぼること7年前。1972年2月。

ニクソンが訪中して毛沢東と会い

ジミーカーターの正式調印の道を切り開いたのである。


それを受けて、田中角栄が訪中

日中共同宣言をした。


ここに日米両国は中国は一つを認め台湾との国交断絶を

表明した。



だが、日本には戦後、1951年。

吉田首相が日中戦争の終結のため

中華民国(台湾)と日華平和条約を締結していた。


日本は戦争中、中華民国と戦争をしていたのである。

台湾に逃れた中華民国の蒋介石はいつか大陸に

戻ろうとしていた。


だが共産党政権が強くなり現在まで至っている。



日本にとっても難しい諸問題が残された。



現在に至るまで一つの中国という問題は

難題である。











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