僕の現代史(風雪に耐える)

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昭和52年(1977年)

僕は33歳、二児の父。


僕の手帳の1ページにはこのように書かれている。


風雪に耐え、苦を喜び、

たましいを磨きぬく。


人を使うは苦を使う。

上に立つものがより以上の苦をせねば

上に立つ価値がない。

松下幸之助



未熟な経営者の僕はよほど苦しかったと見える。


なぜ、このような従業員がいるのかと

嘆いていた。


幸之助に言わせれば、それがあなたの実力。

経営者以上の器の人間は集まらないのが原則である。


なるほど。



さらに松下幸之助はいう。


この世には2,6,2の法則がある。

従業員が10人いれば、普通の人が6人、

経営者のよき片腕になる人が二人、

足を引っ張る人が二人という法則である。


経営者と同じ方向を向かない人がいて

僕もずいぶん悩んだ。


首にしようか、どうしようか悩んだ。


松下幸之助の答えは

たとえ足を引っ張るような経営者から見て悪い人を

切ったとしてもまた2,6,2の法則に戻る。

それが長い間経営してきて分かった。


それは10人でも100人でも1000人でも一万人でも

同じである。


松下幸之助はいう。


陛下はあらゆる人間を日本国において抱えておられる。

監獄にいるものも抱えておられる。


どんな人間も縁あってわが社に来てくれたのであるから

わしも抱えていこう。

でなければ陛下に申し訳ない。

と思ったら、幸之助は雑念が消え眠りにつくことができた。


幸之助も巨大企業を作ったが、眠れぬ夜を数多く

過ごしていたのである。


というわけで

僕も片腕の人間を鍛え普通の6割の人を磨き

足を引っ張り人も連れて行こうとしたのであった。



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僕の現代史(福田内閣誕生)

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昭和51年(1976年)

僕は32歳、二児の父。


12月5日。

衆議院選挙で自民党が過半数割れになり、

三木武夫首相が退陣した。


変わって福田赳夫内閣が誕生した。


彼は明治38歳といって若さを強調するとともに、

この日本丸は福田におまかせくださいと大見得を切った。


おりしもオイルショックの後遺症で経済は沈滞していた。

経済のことは福田にお任せくださいと自信満々であった。


福田さんの特徴は大見得を切ることである。


福田の登場は天の声である。

などなどいっぱいある。


太平さんに負けたときは、

天の声にも変な声もあると言い訳した。


大きなことを言うが、やることもやった。


だが、国民の人気はあったが、首相は自民党内で決まる。

すでに失脚していたが田中の存在を味方につけたものが

勝つのである。


もう少しやってもらいたかったが、

また本人もやりたかったが、

短期間で大平に政権を譲った。


うどん好きが僕と同じなので

親しみを感じていた。


退陣後は昭和の黄門様と自分で名乗り、

日本のご意見番として90過ぎまで生きた。


高らかに笑う福田首相の顔が今でも

浮かぶ。


群馬初めての首相であり、その後中曽根、小渕、

福田康夫と4人も首相が出て長州とともに

首相の数が多い県になった。


それはNHKの花もゆで長州と深い関係があったことが

分かって、それも関係しているのかと思う。


街には泳げたいやきくんが大ヒットしていてどこを歩いていても

たいやきくんが流れていた。


秋口からは都はるみの北の宿からが流れ始めて、

流したラジオアナウンサーが思わず

うまいですねー、と感無量の発言をしたのが今でも

耳に残っている。

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昭和51年(1976年)

僕は32歳、二児の父。


僕が中国に詳しくなるのは最近のことである。

昭和51年当時は全然詳しくない。


現在振り返れば今の中国が見えてくる。

池上彰氏から教わったことが多い。

書籍でテレビでネットで数多く勉強させていただいた。



この年、

中華人民共和国、毛沢東主席が死去した。

その前に周恩来首相も死去している。


日中国交正常化はすでにしていて、

日中平和友好条約はこの数年後である。


現在、毛沢東は功績第一、誤り第二と言われている。


共産党により中国を統一した功績が限りなく大きい。

その後、農政、経済政策の失敗よりも功績のほうが大きいということである。


毛沢東はソ連の共産党を教材として実行した。


スターリンがその農業政策、経済政策の大失敗を

大成功と偽って発表したことに気が付かず、または知っていても

頼るべき教材がなかったので中国は失敗しないだろうと思ったのか

とにかくそのまま実行した。


人間はみな平等であるという思想であるから、

みなが喜ぶと思っていたが、能力のあるものも

よく働くものもみな給料は同じとなると、

全員がナマケモノに水準を合わせるという結果になった。


だから、やたらと計画生産のノルマが厳しくなった。


だが全員同じ給料の場合、そこに工夫が生まれなくなり、

農政もよく知っている大農家を粛正したので素人ばかりである。


農業は大飢饉を招き、産業は発展しないという結果を招いた。


おまけに文化大革命という権力闘争をしていた。

多くの知識人が粛正された。


だから大人口を抱える中国でノーベル賞が少ないのではないか

と思う。


池上彰氏は粛正された死亡人数は言わなかった。

実態は推測するより方法がなかったのである。

推測は池上氏が嫌うことである。


真実のみいう。


真実として当時イギリス領であった香港の海に

大量の死体が大陸の川から流れついて、

香港の人々は大陸で今大変な何かが起こっていると

思ったという。


それが文化大革命であった。

僕は当時ノンキなもので文化が革命的に良くなる運動と

解釈していたから恥ずかしい限りである。


毛沢東が死去するまで続いた文化大革命は直ちに復権した

鄧小平らによって止められ、

その指導していた江青ら4人組が逮捕された。


その報道はあったが意味が分からなかった僕である。


現在、文化大革命の施設はあるが、日本のマスコミが

入ろうとすると拘束されて追い出されてしまう。

中国においてはタブーである。


誰も触れないようにしているのである。

日本の池上さんらのテレビ報道までは規制に来ない。


その後、鄧小平は動いた。

鄧小平の松下電器訪問と松下幸之助への赤裸々な

依頼は真摯なものであった。


鄧小平は正直に貧乏な中国を助けてもらいたいと

幸之助に中国に工場を作ってくれるように頼んだのである。


幸之助も意気に感じ中国工場を作った。


そのほか政府も多額な援助をして数々の橋や病院などの

インフラ整備に尽くしたが橋に日本の名前を付けて感謝を

忘れないベトナムのようなことはしない。


日本からの援助は忘れてナショナルの中国工場も

反日騒ぎの時には攻撃された。


鄧小平にあれほど感謝されたのに

幸之助の嘆きが聞こえるようだ。


パナソニックとなって中国工場は撤退した。


しかし、太古の昔から中国には世界戦略があるという。

東南アジアなどは中国の属国という意識が昔からあり、

躊躇なく新幹線や道路の地図が引かれ、

新しいシルクロード建設の世界戦略がある。


100年計画といっているので、数々の問題は

想定の範囲らしい。


そんな中国に互角に立ち向かう日本の政治家は今のところ

阿部さん以外見当たらない。


人材よどんどん出てこい。












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