昭和63年(1988年)

僕は44歳。

 

レーガン大統領、第二次世界大戦中、日系人強制収容を

謝罪し、一人当たり2万ドルの補償を払う。

 

戦後40年を経過しようやくたどり着いて、過去の過ちを

認めたのであった。

 

太平洋戦争を仕掛けたのは日本ではなく米国民をも欺いた

ルーズベルト大統領である。

それは後のフーバー大統領も述べている。

 

ルーズベルト大統領は日本人を人間だとは思っていなかったので

妻に反対されるも強制収容を実行したのである。

日本人は猿と同様に思っていた。

 

しかしなぜか中国の蒋介石は支援した。

蒋介石の妻がアメリカ留学経験あり、英語がぺらぺらで、支援や援助要請は妻がしていた。

たすけてくれーと。

 

しかし最大の原因は日本人を恐れていたのである。

 

今では考えられないくらい日本のスパイ大作戦は世界一クラスであった。

 

日系人の中にはアメリカに深く入り込み、アメリカの黒人社会も

取り込んで、黒人社会では日本軍がアメリカに上陸して自分たちを助けてくれると信じているくらいであった。

 

白人以外の人々にとって、日本は希望の光であった。

それはアメリカでもメキシコでも南米でも日本人によって

プロバガンダされていた。

 

広くはオーストラリア、ニューギニア、ニュージーランドの

原住民も日本軍が来て自分たちを助けてくれると信じていた。

これは資料があるのである。

 

ルーズベルトはそれを恐れていた。

アメリカ内部から崩されるのを恐れた彼は日系人のいるアメリカはおろか、メキシコ、南米の日系人も収容した。

合わせて全財産も没収された。

 

日系人の苦難は筆舌に尽くしがたかった。

数々の映画で描写されている。

 

ルーズベルトが恐れるくらい日本のプロバガンダとスパイ作戦は

すごかった。

過去には日露戦争もその作戦でロシア革命を起こさせ、日本を

勝利に導いた。

 

そんな日本であるが現在の日本はスパイ天国である。、

またスパイも各国に派遣していない。

 

誠に平和国家日本である。

だがそんなことを言っていられない、きな臭いこの頃である。

 

 

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昭和63年(1988年)

僕は44歳。

 

この年、

東京ドームが完成した。

 

ジャイアンツ球場の本拠地である。

 

それとともに各種イベントの会場になった。

特にこけら落としの美空ひばりの公演は有名である。

何度も何度もテレビで流れるのである。

 

それからは東京ドーム公演が一つの目標になった。

特にAKB 48が目標にしたことで有名である。

 

現在でも東京ドームは大きさの目安として日本では

定着してしまった。

何かと東京ドーム○個分などと言って大きさの

目安の定番である。

 

東京ドームでのプロ野球はびっくりしたものだ。

特に松井が出てきてからは球がピンポン球のように

軽くはじけて外野席に飛び込む。

最上階はどころかその上の看板まであたって

松井がすごいのか、球が軽いのかと思った。

 

だが、あたりそこねの球まで入るのである。

そこで近年球を変えたところホームランが激減したことがあった。

 

最近はまた飛ぶようになった。

 

だが、WBSがあったときに、日本のホームランバッターが

打ったいい当たりが2塁打になったときには

広いなあと感じたものだ。

 

やはり、球場は広くなくてはならないと

思うのである。

 

 

 

 

 

 

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昭和63年(1988年)

僕は44歳。

 

この頃は僕は大いに勉強していた。

 

船井では商売の勉強。

船井クリニックセミナーでは全国のお店を

見学して回った。

 

書籍は船井幸雄や松下幸之助、中村天風など多数。

頭だけでなく魂の磨きも行っていた。

磨かれたかどうかはわからないが、苦しいことに

あまりびっくりしなくなった。

 

それとともに全国に同業者の友人ができた。

 

その中の一人新潟のKホームの社長には大いに勉強させて

もらった。

 

結局、倒産してしまうのだが、それも勉強になった。

 

会社経営していればいろんなところから借り入れを起こす。

貸してくれるからと言ってどこでもいいわけではない。

農協から借りて倒産したところもある。

 

Kホームの社長から聞いた話だが、

政府系の金融委機関から借りたときに、担保を

とられたという、

すると政府系が自動的に第一担保に設定され、

今までの地本金融機関は第二にされてしまった。

 

結局地元金融機関は手を引くようになり、

面倒を見てくれなくなった。

 

政府系が徹底して面倒を見てくれればよいが

そうも行かずそれが命取りになってしまった。

 

またY家具店は苦しいのを税務署や役所に知ってもらうため

税金の滞納をしたと言っていた。

 

その結果、納税証明がとれずに信用保証協会の

審査が通らずに金融機関から借り入れがしにくくなって

これも倒産した。

 

全国の友人達のうち半分以上がこうして消えていった。

 

ニトリの本州進出とともに各地の家具店は苦境に陥り

方向性を模索する毎日が始まっていった時代である。

 

僕は友人達が教えてくれた貴重な経験を勉強して

しぶとく生き残っていったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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