最近思うことを書きます。 最近良く思うのは、自分が簡単にできることをすれば大概の事は上達するし、それは言い換えれば、必要な物は全て目の前にあるということでもあるなと。
最初に「自分が簡単にできることをすれば大概の事は上達する」ですが、これはこの前紹介した駿河台出版社のポッドキャストを聞いてたら、フランス語のリスニング力が今までより一段上に行ったので、改めてそう思いました。
これはたぶん注意量という概念から説明できると思うんですよね。第二言語習得理論とかだと、まずそもそも人が外国語に上達するというのはその外国語の構成要素に気づくということからスタートする(意識的であれ無意識的であれ)というのがあるわけです。
でも、人の注意の量というのは一定なので、難しすぎるとどうしても意味処理にだけ注意が支払われてしまい、それ以外の要素、特に文法や発音のような言語面の処理が疎かになってしまい、その結果上達が途中で止まってしまうと。
そうならないためには、簡単なものにたくさん触れることで、意味処理ではなくそれ以外の構成要素に注意を向けられるようになる必要があるわけですが、それと同じことがいろんなことに当てはまるようなきがするんですよね。実は難しいことをやりすぎているから上達が止まっているのであって簡単なことをきちんとやりこんでいけば、自然とレベルが上達して今できないことができるようになるというのは案外多いのではないかなと。
で、あと、それがじゃあどう、「必要な物は全て目の前にある」につながるかというと、これは考え方の問題であって、本当にそうかはわからないですけれど、もしさっきの「今できることをきちんとやりこめば自然とレベルが上がる」とするならば、だったら別に今手に入れられないものがあるからできないというより、むしろ「今眼の前にあって、かつやるべきことをやってないからできない」という風に考えられるのではと思うから。まあ、これはあくまで考えなんで本当かどうかわからないんですけれど、でも考えてみたら道具を使いこなすってのは一定の修練がいることじゃないですか。
だったら、「AがないからBができないんだよ」と思っている人がいたとして、その人がAを手に入れてもAを使いこなせないから結局出てくる結果が変わらないという可能性が高いんじゃないですかね。まあ、別にこれは僕の妄想ですけれど、でも教えてる立場から見てると語学にはそんな人多いですけどね。
まあ、ただ、とは言っても、実際どれが自分のレベルにあった簡単なことかというのを理解するのはじつは難しくて、だからこそネットにどれほど教材が溢れてもたぶん先生とか学校というのは一定数存在することになるわけですが。
実際だって、僕英語教え始めた頃よく思ってたんですけれど、別にそもそも教えることってないんですよね。だって、全部教科書見たら書いてあるし。だから何を教えるんだろうって最初の頃は結構まじめに悩んだし、だから授業評価も低かったんですけれど、途中からわかりました。
書いてあってもわかんないんだなって。まあ、でも僕だって他の分野に関してはさっぱりわからんちんですからね。それに気がついてからはだいぶ評判も良くなりました。メデタシメデタシ。訳わからなくなったのでこのあたりでおわります。ではでは。