皆さんがすることはそこにあるものを見ることだけです。
皆さんは全くそこにあるものをわかっていません。
絶えずそこから逃げているばかりです。
私は簡単な教えを皆さんにお伝えします。見てください。皆さんには何も素晴らしいところはありません。ゴミ箱です。ちょっと見ればわかります。どこを見たとしても自我ばかりです。それがわかるはずです。それを間接的に知ってます。そしてちゃんとそれを見てください。そうすればまずそこに痛みが来ます。ねたみの考え、ジェラシーの考え、おそれの考え、不安の考え、それはいい体験じゃありません。絶えずそこから逃げようとしています。逃げるばかりです。
それこそが唯一の問題です。人間の唯一の問題です。
つまり逃げてばかりいること。唯一の問題です。
 だから私たちは皆さんに言うんです。それと向き合ってください。皆さんは言うかもしれません。じゃあやってみましょう。最初はそれは難しいかもしれません。しかししばらくしたら、とても心地よいものになるはずです。見ることはとても快適になります。皆さんの醜いところ、暗いところを見る際に、ネガティブな部分を見るときに、不思議とそれを責めることがなくなっていきます。
 なぜなら皆さんそれを真実だと理解出来るからです。そこから喜びにも変わります。その喜びの中で、皆さんはわかります。そこに葛藤が完全に消え失せたことに気付きます。
ネガティブなもの否定的なものが消えた、ということだけじゃないです。ジェラシーがなくなる、怒りがなくなる、おそれがなくなる、ということではないです。そういったことではないです。人生で初めて自分はこうだと認めるわけです。それに対して恥とも思わなくなるわけです。これこそが真実だ、とわかるわけです。
 そして真実の状態になっているわけです。それこそがスピリチュアリティ精神性の最初のステップを踏み出したときであり、それこそがラストステップでもあるわけです。その後はすべてが自動的です。そこにグルその先生は必要ありませんし教えというものも必要ありません。全てが自動的です。ですから私たちはいつも言っています。とても簡単なことだと。ダルマ(いろんな道)の様々な状態を聞く中で、皆さんはこうなるためには何かが出来るとおもうわけです。そこに至る為に自分の側で何かが出来ると思うわけです。しかし皆さんの側でそこに至るために出来ることは何もありません。
 皆さんがジェラシーの多い人物だったとして、ジェラシーのない人物になることはできません。皆さんがおそれの多い、不安ばかりの人間だったとして、その人がライオンのように勇敢な人物になることはできません。落ち込んだ人間が戦士のように勇敢な人間になるわけではありません。あなたは変われません。変わりません。皆さんがどう努力しようと変われません。
じゃあ、ここでの教えって何でしょうか。教えは、あなたは変われない。しかも変わる必要もない、なぜならば皆さんはそのようにデザインされているからです。あなたはそのままです。それが全てです。私の教えの全てです。そしてそれが受け入れです。ああそうだ、自分はこうだ、変われないし何もできない、そしてそれに対しても何も悪いところはない、なぜならばそれは自分でデザインしたわけではない、神が何かの目的でそのようにデザインしただけです。
 そこに完全な受け入れがあります。受容があります。そこにあるものを受け入れたとき、それが瞑想です。それがサダナ・行です。それが全てです。それほどシンプルなことなのです。私たちは皆さんにマハトマガンジーのようになりなさいとか、キリストのようになりなさいとか、ルッカーラという偉大な人がいたらしいですけれど、ルッカーラのような偉大な人になりなさいと言ってる訳ではありません。
 全く違います。私たちがいっているのは自分自身を受け入れてくださいと言ってるだけです。自分自身でいてくださいって言っているだけです。もし皆さんがそれが出来ればそれこそが皆さんがキリストになりガンジーになり、ルッカーラになったということです。私はガンジーのようになりたい、ルッカーラのようになりたい、キリストのようになりたい、そう思っている限り何にもなりません。そういったものになれません。とてもシンプルなことです。
 私がそれを手伝います。